ここ最近このブログの更新頻度がかつてないほど落ちている。
別サイトに力を入れてるというのもあるが、それ以上にこのブログで何を書けばいいのか分からなくなってきた。
今回の記事はノープランで勢いに任せて書いたため、正直まとまりのない文章になっている。
※ひろゆきに関する話が読みたい人は目次の「ひろゆきに嫉妬してた?」からどうぞ
固定読者なんていらない・・・そんな風に考えていた時期が俺にもありました
10日ほど前に「2022年2月の振り返り・まとめ」という記事を書いた。
具体的数字を言うのは避けるが、同記事を読んでくれた人は思ったよりも多い。
こんな何の捻りもないつまらないタイトルで見てくれる人は、おそらくある程度このブログを定期的に見てくれている読者だろう。
つまり何だかんだ言っても、いわゆる固定読者さんは一定数いるらしい。
ありがたいことに。
去年の12月末ぐらいに
「もう固定読者なんていらねーから!!」
みたいなことを書いたが、これは完全に自己欺瞞だ。
平たくいえば単なる”強がり”であり、スネちゃっただけである。
本当はメチャクチャ彼女が欲しいのに
「別に彼女作りたいと思わねーし・・・?」
と余裕を演出するモテない男(高校時代の僕)と全く変わらない。
ホントは固定読者が欲しくて欲しくてたまらないのだ。
だがあまりの読者からの反応の少なさに
「固定読者?もともと必要ないと思ってるよ……うん、最初から求めてないだけだから……作ろうと思ったら作れるけど本気出してないだけだからね?」
と虚勢を張ることによって、自分を慰めていただけなのである。
ボクが定期的に知り合いの連絡先を全部消すのも、似たような心理が働いているのかもしれない。
ひろゆきに嫉妬してた?
ある時期、ひろゆき氏に批判的な記事を書いたことがあった。
僕が『世間』『ヤフコメ民』といった抽象的な集団を批判することは少なくない。
だが特定の個人を批判する記事を書いたのは、覚えてる限りだと彼とハイノートなんとかさんだけだ。
この時期のボクはひろゆき氏に対しけっこうな嫌悪感を抱き、今思えば異常なほど執着していたと思う。
今でこそ彼に対する批判意見も多くなってきたが、当時は彼を持ちあげる声ばかりだったことも大きな原因だった。
だがそれと同時にボクの中には彼に嫉妬する部分があったように思える。
ボクは人が他人に対して悪い意味で執着するとき、そこには嫉妬の感情が含まれるケースが多いと思ってるが、ボク自身もそれは例外じゃない。
ボクが彼に対して嫉妬したのは以下の部分だ。
これは僕の理想的な発信スタイルだし、自覚はなくとも多くの人はこういった承認欲求をある程度持ってると思う。
(ひろゆき氏に対する好き嫌いや発言内容の是非はひとまず置いておく)
一方僕はどうだろう?
人の目を気にするあまり、言いたいことも半分ぐらい抑えている。
だがその割には一向にファンが増えず、共感している人間が存在するのかどうかもよく分からない。
以前やっていたTwitterやNoteのフォロワー数はせいぜい4、5人程度だ。
(このブログ並みにアクセス数があってこれほど悲しいフォロワー数の人間は他に見たことがない)
本音を言えばひろゆき氏のように
「好き勝手発言して、それに共感したファンがどんどん増えていく」
というのがボクの理想スタイルなのだろう。
僕は世間に対して批判的な発言ばかりする一方で、実は誰よりも世間に承認してもらいたい欲求が強いのだと思う。
好き勝手発言してファンがどんどん増えていく彼に、どこか嫉妬している部分はあった。
もちろん嫉妬が批判する理由の全てではなく、ある程度客観的に彼の問題点を書いたつもりだが。。
ひろゆきに対する現在の感情
今後ひろゆき氏の批判記事を書くか?といえばおそらく99%書かない。
彼の動画を見ていると、エンターテイナーとしての面白みがあるのは分かるし、あまり認めたくないが、正直自分と似通った部分もある。
もちろん今でも「彼のここが気に入らない」「これはおかしい」と感じる部分はたくさんあるが。。
好きか嫌いかで言えば正直「どっちでもない~やや嫌い」ぐらいのレベルまで下がっている。
以前ならもしデスノートを持っていれば速攻で彼の名前を書いていたが、今だったら「西村博・・・」ぐらいまで書いてやっぱり思いとどまって消しゴムで消すと思う。
ひろゆきへの評価が変わってきた
そしてひろゆき氏の批判記事をもう書く気がない理由はもう一つ。
いま彼の批判記事を書くことは、ボクの中では
「大谷翔平って凄いよね」
という記事を書く行為に近いものがあると思ってるからだ。
つまりボクがひろゆき氏の批判記事を書いた時期とは違い、今のネット上では
「ひろゆきが嫌い」
という声が主流になってきた雰囲気がある。
多数派が思ってる当たり前のことを書くのは、僕の中では「つまらない行為」だ。
マジョリティを味方につけた時点で、ある種の”卑怯さ”すら感じてしまう。
またあくまでエンターテイメントとして見た彼の面白さはある程度理解できるし、今はそこまで彼を嫌っていない。
ひろゆき以上に嫌いなもの
ボクがひろゆき氏に嫌悪感を抱いた理由として、ひろゆき氏自身よりも彼の盲目的なファンが鼻について仕方なかったというのもある。
分かりやすい例で言えば勝間和代さんの動画なんかがそうだ。
勝間さんといえば、難関資格の公認会計士2次試験に歴代最年少で合格し、その後も様々なジャンルで活躍してきたスーパー知識人である。
(別に彼女のファンではないので僕もそこまで詳しく知ってるワケではない)
ところが10年ほど前にひろゆき氏と勝間氏がディベートをした動画のコメント欄は
「このおばさんホント馬鹿だわw」
「もっとマシな相手いないのかよw」
といった趣旨の勝間氏を侮辱するコメントであふれている。
こうしたコメントをしている人間が仮に勝間さんと実際にディベートすれば、ほぼ100%相手にならないだろう。
おそらくそもそもの知識量が違い過ぎて、彼女の話を理解する事すらできない。
たいして知識も思考力もない人間が、ひろゆき氏の動画を見ているうちに自分まで賢くなったと勘違いし、ひろゆき氏の対談相手を馬鹿にする。
こういった虎の威を借る狐みたいな連中がボクは心底気に入らないのだ。
ひろゆき批判に対するモヤモヤ
「ひろゆきの批判記事を書く気はない」と言った後になぜこんな話をしたかというと、
最近はひろゆき氏を批判する側にも似たようなものを感じる時があるからである。
たとえば一部の賢い人が、ひろゆきの発信した情報の一部に誤りがあることを指摘したとする。
するとその内容が合ってるかどうかわからない人までも、
「間違ったんだから謝れよ!」
「またコイツは知ったかぶりしてんのか」
「ひろゆきはホント馬鹿だな」
と一斉にひろゆき叩きに便乗する。
これは僕が先ほど述べた
『ひろゆき氏に乗っかって勝間氏を叩いていた人間』
とどこか重なって見える。
またある時期から、やたら彼に対し
「論点ずらし王」
という声が挙がるようになったが、論点が合ってるときまでこのフレーズで攻撃する者も多い。
”論点ずらし”という言葉を適切なシーン以外で乱用してる人を見ると
「それってあなたの感想ですよね?」
というフレーズを○○の一つ覚えのように乱用する人たちと大差ないように感じるのだ。
彼の発言を否定できるだけの論拠があって、自分の言葉でひろゆき氏を批判するのはいい。
しかし賢い人の発言に便乗し
「自分はよく分かってないけど、なんとなく空気的にひろゆきが間違ってるみたいだから叩く」
というのは、ボクにはどうも虎の威を借る狐に見えてモヤモヤする。
そしてこのように周りの空気を見て彼を叩いている人は
「他の場面でも周りの空気だけで誰かを叩いているのではないか?」
と類推してしまう。
要するにボクは
論理ではなく空気に乗っかって意見を主張する人間
が嫌いなのである。
是々非々
このようなことを書くと
「お前はひろゆき信者なのか?」
という読解力0の解釈をする人もいるが、決してそうじゃない。
誰が言うかではなく何を言うかによって是非を語るべきだと言いたいのだ。
確かにひろゆき氏は論理破綻した発言をすることが多々ある。
彼を”論理的な人”だと思える人間とはたぶん一生話が合わない。
だがいつも論理破綻してるかと言えばそれも違う。
「コイツが言うことは100%間違いだ」
「コイツは何を言っても叩いてやろう」
「この人の言うことは100%正解だ」
こうした”0か100か”という単純な思考回路がボクは大嫌いなのだ。
まあ世の中ではこのようにシンプルな二元論のほうが好まれるようだが・・・
~ひろゆきに関する話はここまでで終わり~
時を戻そう
話を元に戻す。
・・・もともと何の話だっけ?
そうだ、何を書けばいいのか分からなくなってきたという話だ。
正直なんでひろゆきの話を書いたのかもよく分からない。
このブログで書いてきた内容は大きく分けて
- 役に立つ話
- あるあるネタや自分の過去ネタ
- 持論
(という建前の悪口)
の3つになる。
平和にやっていくには1と2だけを書いていけばいいのだが、僕が一番書きやすく、衝動的に書きたくなるのは3だ。
そして最近は1と2のネタが思い浮かばず、3ばかりが頭にあふれてくる。
ただ3を書くとなると、以前も述べたように”誰もが思ってる当たり前のこと”はなるべく書きたくない。
そうすると結局、世の中の大半とは異なる意見を書くワケだから、どうしても不特定多数の考えを批判することになってしまう。
そして書き続けているうちに、こんな感情が芽生えてくる。
「俺は他人を批判してばっかりのイヤな奴だな」
「こんな他人の批判ばかり書いてたら今いる読者もみんな離れていくんだろうな」
「このブログを褒めてくれた人のことも、知らないうちにどこかの記事で批判してしまってるかもしれないな」
「ひろゆきの他人を見下す態度を批判したけど、自分だって似たようなもんだな」
読者は何を求めているのか?
「固定読者なんていらねーよっ!!」
なんて強がりながらも、やっぱり今いる読者に離れて欲しくないという想いがどうしても消えない。
アクセス数をちらちらチェックしたり、いまだにブログ村の応援数をときどき覗いたりしてしまう。
という固定読者以外おそらく読まないであろう記事を読んだ人たちは、僕にいったい何を期待してブログを見に来てくれるのだろう。。
面白い記事を読みたいのか?
役に立つ記事を読みたいのか?
持論記事を読みたいのか?
このブログの支持層が何を求めてるのか、ボクにはさっぱり分からないのだ。
・・・今回の文章を書いていて、僕は昔からつくづく成長がない男だと思った。
自分の考えは絶対に曲げないくせに人の目ばかり気にするところがある。
「多数派の考えに否定的だけど多くの人間から認められたい」
という何ともワガママで矛盾した無理難題な承認欲求がなかなか消えてくれないのだ。
そして結局なにもかも中途半端になり、何ひとつ手に入れられないという……