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「他人の気持ちを考えろ」という人ほど他人の気持ちに鈍感である

「相手の気持ちになって考えよう。自分がされたらイヤでしょ?」
……そう教えると、子どもたちはイジメをしなくなるんですよ。

見るからに優しそうな(ボクの目にはこれ以上ないほど胡散臭く映る)教育評論家が、自信に満ちた表情でこんなことを述べていた。

ああ、いかにも善人が好みそうなセリフだ。

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「相手の気持ちになって考えろ」と軽々しく言うけど……

『相手の気持ちになって考えなさい。もし君が相手の立場だったら嫌でしょ』

こうした教えは昔から美徳としてよく語られる。

だがこの教えから得られるのは、投影による理解の範疇から生まれる極めて限定的な思いやり精神だけである。

もう少し分かりやすい言い方をすれば、

「自分がこう思うから他の人もこう思うだろう」

というように、自分の感受性を基準にして相手の気持ちを推し量ることしかできないということだ。

この教えでは自分と感受性の違う人間の気持ちは一切理解できない。

そして理解できてないのに理解できていると勘違いした人間を大量に生み出してしまう。

つまりボクが言いたいのは

「自分が嫌だとは思わないことでも相手は嫌だと思ってるかもしれない」

という想像力のほうが何十倍も大切なんじゃないかという話である。

たとえば無差別通り魔で捕まった犯人は、必ずと言っていいほどこんな口述をする。

「大きな事件を起こして死刑になりたかった」

彼にとって自分の命を奪われることは嫌なことではなく、むしろそれを自ら望んでいる。

“自分がされて嫌なことをしてはいけない”という理屈は、彼の凶行を止める理屈にはならないのだ。

偏食に対する偏見

ほかの例を出してみよう。

世の中では

「偏食は甘えであり、育ちが悪く、いい年した大人が好き嫌いをしているのは恥ずかしい」

という常識が幅を利かせている。

ボクの知る限り、この常識に異を唱える人間はほとんどいない。

だがこれはまさに自分の感受性を基準にして物事の善悪を判断してる好例である。

偏食を「甘え」と平然と言ってのける人間は、おそらく生まれつき嫌いな食べ物がほとんどない人間だろう。

あるいはちょっと努力すれば克服できる程度にしか嫌いな食べ物が存在しなかったと思われる。

だが世の中には食べ物の9割が生理的に受け付けないという特殊な味覚を持った人間も存在する。

こうした極度の偏食家が言う「嫌いな食べ物」は、通常の味覚を持つ人間が言う「嫌いな食べ物」とは全く異質なものであるとボクは確信している。

なぜなら極度の偏食家が言う「嫌いな食べ物」は努力で克服できるような代物ではないからだ。

おかしな常識

ボクは小さいころ学年一の偏食家だった。

給食の9割を食べられず、朝食を食べてから夕飯までなにも口にしない日だって決して珍しくなかった。

(朝食もパンを一片食べるか食べないかという程度である)

もちろんこの行動が周りの人間に許容されるはずもなく、親や教師からは幾度となく叱られ、クラスメイトからは白い目で見られてきた。

叱られたり白い目で見られた分だけ、他人と同じように食べられない自分が嫌になり、何千、何万回と嫌いな食べ物を克服しようとチャレンジした。

努力の結果食べられるようになった食べ物もいくつかあるが、ほとんどは何度チャレンジしたところで食べられないままだった。

なぜなら以下のような反応が毎回起こり、それを止める術(すべ)がないからだ。

まず眼から涙がジンワリにじみ出る。

つづけて全身に鳥肌があらわれる。

そして胃の中にあるものが勢いよく逆流してくる。

噛んだ瞬間にカラダ全体が拒否反応を示し、嘔吐を催すのである。

今でこそ断言できるが、これは生理現象であり、意志の力や努力で克服できる類のものではない。

だが残念なことに多くの場合、偏食は本人や親の怠惰に起因するものとみなされ、特殊な舌を持って生まれた一部の人間以外にはまず理解されないのである。

これは冷静に考えればおかしな話だ。

世の中には生まれつき目が見えない人間がいたり、腕が欠損している人間がいたり、“ふつう”とは大きく違った身体的特徴を持つ人間がいる。

ならば“ふつう”とは大きく違った舌を持つ人間がいても不思議ではないと思うのだが、その存在だけはなぜか断じて許されない。

世の人たちは、生まれつき声の高い人間がどんなに努力しても低い声を出せないことは理解できる。

しかし生まれつき異常な味覚を持つ人間がどんなに努力しても“正常な味覚”を獲得できないことは理解できないのだ。

舌に関してだけは生まれつきの差異が完全に無視され、“ふつう”の範疇から外れた者は本人の性格や親のしつけに問題があると判定される。

常識を善いことであると信じて疑わない“ふつう”の人たち

多くの人たちは

「偏食は甘えだ」

「子供が偏食になるのは親のしつけが悪いせいだ」

と何の疑問もなく口にし、またそれを咎める者もまずいない。

おかしなことに世間一般の価値観では、彼らは常識人という名の“善人”とみなされる。

逆にボクのような異常な舌を持った者は“非常識な人”や“ワガママな人”とみなされ、いかなる人格否定や親への中傷も容認される。

偏食で誰よりも苦しんでいるのは本人のはずなのに、どうしてこんな醜い仕打ちができるのかボクにはまったくもって理解不能だ。

世の中に存在する食べ物の9割が美味しく感じられず、それどころか吐き気を催してしまう。

カラダが勝手に反応し嘔吐してしまうのだから克服のしようがない。

これはいわば一種の病、もしくは先天的ハンディキャップのようなものである。

だがそんな不運なハンディを背負った者に対し、善人たちは同情するどころか侮蔑の言葉や眼差しを遠慮なく浴びせる。

“常識人”という立場から“非常識な人間”を裁く彼らは、その正当性にわずかの疑念すら抱かない。

そしてこのように何のためらいもなく人を傷つけている善人ほど、別の場面では

「Aの立場になってもそんなことが言えるの!?」

「不快に思う人がいる以上やめるべきだよ!」

なんてセリフを好んで口にする。

彼らはAの立場にいる人の気持ちは考えているのかもしれないが、それ以外の立場にいる人の気持ちは一切考えていない。

自分の言動が誰かを不快にさせているなどとは夢にも思っていない。

だからこそ、こうした歯の浮くような言葉を平然と吐けるのである。

自分が嫌だと思わないことも相手は嫌かもしれない

どうして世の中はこうした善人であふれているのか?

原因の一つには、小さいころから美徳のように語られる

「自分が嫌だと思うことを相手にしてはいけない」

という道徳観があるんじゃないかと思っている。

なぜなら上記の道徳観は、裏を返せば

「自分が嫌だと思わないことは相手にやってもいい」

ともとれるからだ。

さきほどの偏食の例で言えば、ほとんどの人にとって偏食はちょっと努力すれば解決できる問題なのである。

自分がそうだから、言い換えるなら“自分は偏食を治すことをそれほど苦痛だと思わないから”それがどの人間にも当てはまると勘違いしているのだ。

彼らは往々にして自分基準のモノサシを過大評価していると言えよう。

もちろん

「自分がされて嫌なことを相手にしない」

というのも大事なことである。

だがこんなことはわざわざ教えなくてもほとんどの人間が最初から分かるし、分からない人間には教えたところで分からない。

「自分が嫌だと思わないことも他の人は嫌だと感じるかもしれない」

という意識こそが多くの“善人”たちに一番欠けているものであり、もっとしっかり叩き込んだほうがいいんじゃないかと思っている。

(まあこれも教えたところで身につくものではないかもしれないが)

統一教会よりタチの悪いカルト集団

もう一つの原因はやはり懐疑精神の欠如だろう。

偏食を批難する人間は

  • 好き嫌いがないこと=善
  • 好き嫌いが多いこと=悪

という世間一般的に“善いこと”とされている価値観を、自分の頭で吟味しないまま“善いこと”であると信じている。

それゆえ彼らは

「いい年した大人が偏食なんて恥ずかしいよ」

「好き嫌いが多い人って育ちが悪いと思う」

などといった言葉を平然と口にし、一片の罪悪感を抱くこともなく偏食に苦しむ人を傷つけることができるのだ。

いま世間では統一教会がカルトだのなんだのと連日騒いでいる。

だがボクからすると国民の多くが信仰する“常識真理教”という名の国教のほうが、よほどカルトじみているように思えてならない。