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まともな人はなぜ不快なのか?【どうして常識人はウザイのか】

僕は昔からどうも「まともな人」が気に入らない。

TVのコメンテーターにしても、「まともな識者」とネットで評されている人や「常識的な一般論」を語る人ほど癇に障る。

それとは逆に「非常識」「世間知らず」とネットで非難されている人の発言ほど好感や共感を覚えることが多い。

いったいなぜだろうか?

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まともな人とは何か?

「まともな人」といっても意味があいまいなので、まずこの記事における「まともな人」の定義をハッキリさせよう。

日頃あなたは「まともな人」という言葉をどんな意味で使用しているだろう?

①常識的な言動をする人
②自分と価値観や物の考え方が近い人
③善良な人

おそらく大半がこんなところだと思う。

僕がこの記事で述べる「まともな人」とは、頭の中で①と②と③が常にイコールで結ばれている人間を指す。

つまり自分を常識人と認識し、それを善いことであると確信している人間である。

なぜそうした人間が気に食わないのか?というのが今回のテーマだ。

向上心と差別感情は表裏一体

まともな人間とは裏を返せば非常識(と感じる者)に対し、軽蔑の視線を向ける人間でもある。

なぜなら向上心と差別感情はつねに表裏一体だからだ。

人はあるものを善いと思えば、その逆の性質を持つものを悪いと思う傾向を持っている。

たとえば以下のような傾向はネット上や身の回りでもよく見受けられるだろう。

  • 礼儀作法を厳しくしつけられた者は、礼儀作法のなっていない(とされる)人間を嫌う
  • 好き嫌いなく食べるのが善いことだと信じている者は、偏食の人間を軽蔑する
  • 読書を高尚な趣味だと思っている者は、本を読まない人間に差別感情を持つ
  • 高収入であるほど優れていると考えている者は、低収入な職業に就いている人間を見下す
  • ブランド物に価値を感じる者は、安物を身にまとった人間を憐れむ

同様に、まともであることを「善いこと」だと確信している者は、「まともでない人間」を軽蔑の対象として見る傾向がある。

誹謗中傷をする人間の多くは「まともな人」である

「誹謗中傷をする人間」と聞いて、あなたはどんなイメージを浮かべるだろう?

一般的によく言われるイメージとしては

  • 友達がいない
  • 底辺
  • 無職・ニート
  • ネットでしか物を言えない
  • まともじゃない

などが挙げられる。

だがよくよく誹謗中傷をしている連中のコメントを辿ってみると、こういった特徴を持つ者はそれほど多くない。

むしろよく目にするのは、子持ちで結婚もしており、経済的には中流階級に属する「ふつうの人間」だ。

おそらくだが友人もそれなりにいるんじゃないだろうか。

これはボクの体感だけでなく、社会学的な調査でもだいたい同じような結果が出ている。

余談

読者の中には「誹謗中傷を書き込む人間は実はごく一部しかいない」という趣旨の記事を目にしたことがある人もいるだろう。しかし元ネタと思われる調査結果をネットや本でいくつか読んだが、正直疑問点が残るものばかりだった。

第一に誹謗中傷をどう定義しているのか?第二に誹謗中傷をする人間の大半はその自覚がないのではないか?(元ネタの調査は自己申告制なのだ)第三に自覚があったとして素直に認めるだろうか?第四に調査対象が偏っているのではないか?

他にも疑問点は複数あるが、こうした疑問を退ける記述はいまのところ見つかっていない。そして書き込む人間が少ないという事実は同意見の人間が少ないことを意味しない。つまりごく少数の極端な意見が目立っているのか、多数派の考えを代表しているのかはその調査結果からでは判断不可能なのだ。

つまり誹謗中傷をする人間の大半は世間のイメージとは違い、どこにでもいる「まともな人間」なのである。

むしろ「まともな人間」であればあるほど、常識の枠からはみ出した異質な人間を許せず糾弾するのではないだろうか?

自分とかけ離れた存在の「害虫」を駆除することに罪悪感を覚えないように、自分とかけ離れた存在の「非常識人」を排除することにも罪悪感を覚えないのではないだろうか?

ネットで叩かれている有名人を見ても、常識からズレた言動や人物ほど叩かれやすい傾向があるのは一目瞭然だ。

僕はむしろ誹謗中傷をする人間への非難として

「どうせ友人もいない底辺の人間だろう」

といった言葉が自然に出てくる人物こそ警戒する。

その主張からは、友人のいない人間や社会的地位の低い人間に対する差別感情をハッキリ感じ取れるからだ。

つまり「友人がいない人間や底辺の人間=貶しても良い対象」という大前提がその主張の「含み」として存在するのである。

そしてこのような精神は、ネットで誹謗中傷をしている人間に多く見られる精神と本質は変わらない。

その本質とは権威主義的性格である。

なぜ常識人はウザイのか

権威主義的性格とは、簡単にいえば権威に盲目的に服従する性格である。

権威というと偉い学者や政治家などを思い浮かべるかもしれないが、彼らが従う権威はそうしたものがメインではない。

おもに従うのは「常識」「世論」「普通さ」といった“匿名の権力”である。

つまり僕が嫌う「まともな人」とは、そうした匿名の権力に懐疑を向けない人を指す。

以下はドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900-1980)の言葉である。

近代史が経過する内に、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代において良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。
私達は古いあからさまな形の権威を自分から解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気が付かない。

『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム

日本人の多くは自分のことを無神論者であり、宗教とは無縁であると思っている。

だが「神」への信仰が「常識」への信仰に変わっただけで、その本質は宗教とそう変わらない。

彼らは「論理的に正しいか」よりも「常識的に正しいか」「みんなと同じであるか」を優先するのだ。

偏った教義を押し付けていることに無自覚である彼らは、規模が大きい分そんじょそこらのカルト宗教よりはるかに害悪である。

まともな人はドMでありドSでもある

エーリッヒ・フロムによれば、権威主義的性格(=まともな人)の本質はマゾヒズムとサディズムであるという。

以下はナチスを支持した群衆の特性についての記述だ。

下層中産階級にはその歴史を通じて特徴的ないくつかの特性があった。すなわち、強者への愛、弱者への嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちけちしていること、そして本質的には禁欲主義的ということだ。
彼らの人生観は狭く、未知の人を疑い、嫌悪し、知人のことを詮索し、嫉妬する、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化する。彼らの全生活は経済的にも心理的にも欠乏の原理に基づいていた。

『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム

まさにネットで正義を振りかざしている人間の性質そのものと言えよう。

とくに禁欲主義的というのが特徴で、彼らは我慢を美徳としている節がある。

いわゆる「不謹慎狩り」や「自粛警察」も、こうした禁欲主義者によって行われた。

そしてマゾヒスティックな我慢大会に参加しない者に対しては、打って変わってサディスティックな攻撃性を見せる。

しかも卑劣なことに、単なる嫉妬に過ぎないものを道徳的公憤という形でぶつけるのだ。

つまり

「私が気に入らないからやめろ」

というのが本音であっても、

「みんなが迷惑しているからやめろ」

「社会に悪影響だ」

「お前には弱者の気持ちがわからないのか」

といった形で、あくまで“みんな”の代弁であるかのように演出するのである。

そして多くの場合、その狡さに無自覚なのだ。

まともな人はなぜまともでない人を攻撃するのか

まともな人(常識人)は、なぜまともでない人(非常識な言動をする人)を攻撃するのか?

理由はいくつか考えられる。

1つめは常識への盲目的な信仰である。

これは先ほど話したので説明する必要はないだろう。

2つめは不安を手っ取り早く解消するためだ。

だれかを「異常」と規定することで相対的に自分を「正常」とみなし、その結果として安心や優越感を手にする。

多数派につけば仲間がたくさんできるし、他者からの賛同により承認欲求も満たされる。

最後に有名な説として脳内ホルモン説もあげてみよう。

異質な者を叩くことで、ドーパミンやオキシトシンといった快楽を感じる脳内物質が分泌されるという説だ。

なぜ異質な者を叩くと快楽物質が分泌されるのか?

それは人間がかつて集団生活によって生き延びてきた生物だからである。

チームを組むことで強さを発揮した人間にとって、もっとも避けたいのは集団の崩壊にほかならない。

だがルールを逸脱する者や異質な者は、集団を崩壊させるリスクが高い。

つまり集団を守るためには、そうした危険分子を排除しなければならないのだ。

こうした原始時代のDNAを受け継いでいるため、今でも和を乱す人間を排除することで快楽物質が発生するのだという。

この脳内ホルモン説が正しいと仮定するなら、彼らは理性ではなく原始的本能で他人を糾弾していることになるだろう。

つまり表面的には思いやり精神を持つ利他的な人間を装いながら、実は自分の快楽のために逸脱者を叩いているだけの極めて利己的な人間なのである。