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「教養がない」という言葉から滲み出る傲慢さ

最近ネットを見てると

「教養がない」

という言葉を他人に対して使う人間をよく見かける。

教養がない……なんとも傲慢な言葉である。

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「教養がない」という言葉を使う人間の特徴

「教養がない」という言葉を使う人間に共通する特徴の1つは性格が悪いということだ。

たとえば「教養がない」というワードでTwitter内を検索してみる。

この言葉を使用している人の日常的なツイートを見てみよう。

たいてい他人を罵ったり嘲笑するようなツイートしか出てこない。

彼らは教養を人生を豊かにする道具ではなく、知識マウントを取るための道具として利用しているのだ。

分かりやすい例で言えばTwitterで人気がある平仮名4文字の出羽守おばさんなんかは典型的である。

教養は人の心を豊かにするというが、教養を他人を攻撃する武器として利用してる人間の心は貧層そのものだ。

他人に教養がないと言える人間の自惚れ

他人に「教養がない」と言える人間はもれなく傲慢である。

驕り高ぶり、自分を過大評価している。

そして教養そのものを過大評価している。

ほぼ全ての人間の人生における目標は

「幸せになる」

ことだ。

  • 誰かから愛されたい
  • 楽しいことだけして過ごしたい
  • もっとお金が欲しい
  • 平和に暮らしたい

具体的な願望は違えど、抽象化すれば「幸せになりたい」という願望を誰しもが持っている。

そして幸せになるための手段の一つとして教養がある。

勘違いした知識人の多くが幸せになる手段の一つに過ぎない教養を過大評価し、自分よりも知識が劣る人間を見下す。

たとえどんなに知識があろうがこのような勘違いをしている時点で、手段と目的が入れ替わってしまう視野の狭い人間と言えるだろう。

芸能人に学歴を求める人間

似たような例として、芸能人やスポーツ選手に学歴を求めるトンチンカンな人間がいる。

「中卒のくせに~」

「たかが○○大学の人間が~」

こういった発言をしてしまう人間はまさに手段と目的を履き違えてしまっている好例だ。

学歴という”就職を有利に進めるための手段の一つ”に過ぎないものを、すでに芸能人やスポーツ選手といった立派な職に就いてる人間に求める。

これは思考停止以外の何物でもない。

偏った幸せの価値観を押し付けすぎ

今の世の中は偏った幸せの価値観を押し付けすぎだ。

人は誰しも幸せを望んでいると述べたが、何を幸せと感じるかは人によって千差万別である。

教養を積むことを幸せと感じる人もいれば、

一日中ゲームをして過ごすことを幸せと感じる人もいる。

定職について安定した人生を送りたい人もいれば、

貧乏だろうが自由を重視する人もいる。

結婚して平凡な家庭を築きたい人もいれば、

結婚をデメリットしかないと考える人もいる。

ニートを親不孝と捉える人もいれば、

親と一緒に過ごす時間が長いから親孝行だと捉える人もいる。

……おそらく最後の文章に関しては脊髄反射的に否定する人が多いだろうが、そういった人は価値観の多様性を本当に認めてるとは思えない。

『※ただし私の常識の範囲内に限る』という無意識の但し書きが思考範囲を制限している。

不登校ユーチューバーへの傲慢

話がだんだん逸れていく。

そしてだんだん理解者が少なくなってくるのも重々承知している。

このブログで何度か取り上げてるが、僕が違和感を抱いてるのが不登校ユーチューバーゆたぼんに対する世論だ。

彼についての私見は以前たっぷり書いたため、今回はあまり長く書かない。

関連記事 ゆたぼん叩きは嫉妬だと思ってる

ボクが彼に対する意見でモヤモヤするのは

「ゆたぼんのためを思って言ってるんだ」

という言説である。

ずばりこれは傲慢以外の何物でもないと思っている。

ゆたぼんの話に限らない。

「~のためを思って・・・」

という言葉は総じて傲慢であり、余計なお世話だ。

「~のためを思って・・・」というセリフには、自分が相手よりも崇高な考えを持っているという自惚れが大いに含まれる。

さらに自分の価値観を相手に押し付けてやろうという身勝手さと、それを自己中心的な考えだと気づかない鈍感さが、どうも僕は鼻につくのだ。

そしてタチの悪いことに、こうした価値観の押し付けをしてくる人間は悪意があってやってるワケではない。

善意に基づいて、良かれと思って本人はやっているのだ。

まさに以前ボクが論じた「鈍感な善人」である。

「~のためを思って・・・」という言葉を使う人は、いかにそれが傲慢な考えであるか自覚したほうがいいだろう。

教養は娯楽の一種に過ぎない

「教養がない」

「~のためを思って・・・」

これらの言葉を使う人に共通するのは自惚れである。

自分は相手よりも正解を知っている、という高慢さが彼らの中には存在する。

そして多くの場合それは勘違いだ。

ある1つの分野における知識が相手を上回っていても、全てにおいて相手より知識が上回っている人間なんてまずいない。

たとえば博識な学者よりも、毎日エ口動画を見まくってるニートの方がセクシー女優に関する知識では上回っているだろう。

そこそこいい大学を出たけどコミュ障な僕よりも、小卒のゆたぼんの方が社会人に必要とされる”コミュ力”は断然高く、葬式に来てくれる人間も彼のほうがはるかに多いだろう。

どんなに優れた精神科医よりも、僕のことは僕自身のほうがよく理解できるだろう。

教養というたかだか娯楽の一つを学んだからと言って、自分が相手よりも優れていると思うのは自惚れ以外の何物でもない。

もし教養を娯楽ではない崇高な何かだと思い込んでるなら、自分の見識が狭いことを自覚した方がいいのではないだろうか。