「嫌いな言葉」
というと、あなたはどんな言葉を思い浮かべるだろうか?
ネットの意見を見てみると、若者言葉や流行語を嫌う人がけっこう多いようだ。
ただ言葉は変わっていくものだと思ってるので、個人的にはその辺に関しての不快感はない。
古典どころかほんの数十年前の文学を読んでも今とは言葉遣いがかなり違うのだから。
ボクが嫌いなのは言葉の表面的な形ではなく、言葉の意味そのもの。
もっと言えばその言葉を使用する人間の「思考」が気に入らないのである。
というワケで今回は僕が嫌いな言葉をランキング形式にし、その理由をネチネチ語っていく。
嫌いな言葉ランキング
さっそく嫌いな言葉ランキングを9位から順に発表していく。
9位 甘え
嫌いな言葉ランキング第9位は「甘え」。
甘えという言葉を平気で他人に向けられる人間は、たいがい自分本位な物の考え方をしている。
たとえば「デブは甘えだ」という世間でよく耳にする例で考えてみよう。
”デブは甘え論”を主張する人間は自分に対して厳しい人間なのだろうか?
いや決してそうではないだろう。
彼らの中には単に太りづらい体質の人間や、食欲がそれほど湧かないタイプの人間が多く混ざっているハズだ。
「いや、自分も太りやすくて食欲旺盛なタイプだが”努力”で痩せられた。だからデブは甘えだ」
と言う人もいるだろう。
それでもやはり、その太りやすさは”どうしても痩せられない人”と比べて低いのかもしれない。
湧いてくる食欲のレベルも”どうしても痩せられない人”と比べれば低いのかもしれない。
彼らは物事の難易度を自分基準で測り、そのモノサシを普遍のものであると信じて疑わないのだ。
たとえばボクが体重50kg台のガリガリなのは努力してるからではなく、単に食欲が湧かないからである。
たまたま運よく太らない体質に生まれただけに過ぎない。
こうした幸運を偶然の産物と理解せず、すべて自分の努力のおかげであると勘違いできる人間の思考回路は実におめでたい。
8位 スルースキル
嫌いな言葉ランキング第8位は「スルースキル」。
悪口などを浴びせられたときに無視する能力のことを指す。
似たような言葉として
「煽り耐性」
「放っとけばいいのに」
「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」
などがある。
これらの卑怯な言葉は当事者ではない第三者だからこそ軽々と口にできる。
というのも、実際に自分へ向けられた悪意を無視するというのは並大抵の難しさではないからだ。
『言うは易く行うは難し』の典型と言ってもいいだろう。
「スルースキルを持て」
とは
「何も抵抗せずサンドバッグになり続けろ」
と言ってるのとほとんど変わらない。
あるいは「自分が悪口を言われても平気だから、他人も平気であるべきだ」と考える人間もいる。
だがそれは先ほどと同様に、自分の感受性を普遍的なものだとする自分本位な考えに基づいている。
7位 逆張り
嫌いな言葉ランキング7位は「逆張り」という言葉だ。
本来はFXなどで使われる言葉だが、最近は
「多数派の主張とあえて逆の主張をする」
という意味でよく使われる。
「わざと逆の主張をすることで注目を集めようとしてるんだろ?」
という勘繰りがこの言葉には含まれる。
中にはそういった”ビジネス逆張り”をする人間もいるが、実際にはそういった例はごくわずかだ。
つまりあえて逆の主張をしてるのではなく、論理的に組み立てた主張がたまたま多数派の主張と合致しないだけである。
自分の頭で物事を考える習慣がある人には当たり前のことだが、世論や常識といったものは理屈で考えればむしろ間違っていることのほうが多い。
これは現代日本に限った話ではなく、民衆裁判によってソクラテスが処刑された時代から今に至るまで、まったく同じような現象が世界中で起こっている。
また、あらゆる学問は常識を疑うことから発展してきた。
要するに常識や世論を疑うのは、思考において初歩の初歩なのである。
主張に対して論理的に反論するのではなく、「みんなと逆の意見だ!」という極めて低次元なレッテルを貼って思考放棄する。
このような人間は”考える”という能力においてスタート地点にすら立ててないレベルと言えよう。
同類のものとして
「中二病」「~な俺カッケー」
といった言葉もネットでよく見かけるが、これもやはり自分の理解できないものにレッテルを貼り、思考停止しているだけである。
彼らは自分の頭で言葉を組み立てる能力が大いに不足しているのだ。
6位 育ちが悪い
嫌いな言葉ランキング第6位は「育ちが悪い」という言葉だ。
おもに「常識がない」「行儀作法がなってない」「下品だ」と感じた相手を貶すときに
「あなたに常識がないのは育った環境(=親の教育)が悪いせいでしょうね(笑)」
という意味で使われる。
ボクはこの言葉を目にするたびにこう思う。
「育ちが悪い」という言葉を使用する人間のほうがよほど下品であり、マナーがなっていないのではないだろうか?
まず他人の家庭に口出しするという行為に品がない。
そして仮に親の教育が悪かったとしても、それは本人の責任ではないし、自分の意思で親を変えることもできない。
本人にどうしようもない部分を悪く言うというのは卑劣以外の何物でもないのではないだろうか?
「私は親に厳しく躾けられたから他人の行儀作法にも厳しい」
ということをなぜか自慢げに語る人間もよく見かける。
だがこの人たちの行儀作法が良くなったのは自分のおかげではなく親のおかげである。
単にその親の元に生まれたという”偶然”によって身についた行儀作法に過ぎない。
別の親の元に生まれれば自分だって行儀作法が身についていなかった可能性もある。
他人の力で偶然身についた行儀作法を誇り、偶然しつけを受けてこなかった人間を貶すというのは、偶然金持ちの家庭に生まれた人間が、偶然貧しい家庭に生まれた人間を貶すのと同じように卑劣である。
仮に行儀作法が身についてないことで誰かに実害があるならまだ分かる。
だがたいていが形骸化した単なるポーズに過ぎず、わざわざ貶すほどの合理的な理由はどこにもない。
一番わかりやすい実例が『箸の持ち方』である。
5位 屁理屈
嫌いな言葉ランキング第5位は「屁理屈」だ。
似たような文脈で使われる言葉に「言い訳」がある。
これらの言葉は、論理で言い返せなくなった人間が、自らの思考放棄を正当化する最終奥義としてよく口にする。
どんなに相手の主張に正当性があっても、これらの言葉を使えば相手を一瞬で黙らせることができるのだ。
実に反則じみたフィニッシュブローである。
4位 発達障害
嫌いな言葉ランキング第4位は「発達障害」。
同種の嫌悪感を持つ言葉として
「ADHD」「アスペ」「HSP」「アダルトチルドレン」
などがある。
全て説明すると長くなるので、ここでは「発達障害」という言葉が嫌いな理由に絞って語っていく。
理由は以下の3つに集約される。
- 概念がガバガバすぎる
- レッテル貼りとしての側面が大きい
- あらゆる事象を発達障害に帰結させる人間が多い
発達障害という言葉は人によって抱いているイメージが大きく違う。
ネットを見ていると、発達障害と知的障害を混同してる人間すら多く見受けられる。
ただしそもそもの医学的定義すらガバガバなので、それぞれが違ったイメージを持つのも無理はない。
たとえばIQ80の発達障害者とIQ120の発達障害者では、周りが受ける印象も当事者が抱く問題も大きく異なるだろう。
つまるところ発達障害とは
ある特性を持った人間を学者が「発達障害」とラベリングしただけ
の話に過ぎない。
発達障害によって症状が出るのではなく、その人の特性がまず先にあって、それに対して後から名付けているだけなのだ。
そしてそのラベリングが非常に雑であり、医師によって発達障害であるか否かの結果が変わったりするなど極めて曖昧な定義なのである。
この曖昧過ぎる定義はインチキ占い師の予言のように多くの人間にある程度当てはまるため、大量の自称発達障害が誕生している。
発達障害というのは「ある・ない」で語るよりも、「傾向が強い・弱い」といった表現のほうが正しい。
この呼び方も好きではないのだが、いわゆる”健常者”と”発達障害者”はグラデーションになっているため、誰にでも発達障害の傾向は存在する。
「ここからここまでが発達障害です」
という明確な基準はどこにもないし
「発達障害者は全員こういった特徴を持っている」
というものも存在しない。
こうしたあいまいな言葉を誰もが気軽に使い、
「あの有名人はアスペだ」
「会社の○○はADHDに違いない」
「同じクラスのあの子は発達障害なんじゃないか?」
「この漫画に出てくるB君はASDだな」
……というようにくだらないレッテル貼りを(それぞれが同じ言葉に違ったイメージを持ちながら)する。
各々のイメージする発達障害の型に誰かを当てはめ、その人を理解したつもりになる。
だがこうした行為は、他人の性格を血液型で判断するのと同じぐらい不毛で馬鹿馬鹿しい。
そもそも発達障害を診断する目的は、他者からの理解、あるいは己自身の理解を深め、適切なサポートをしていこうというもの。
だが発達障害というある種のレッテル貼りは、むしろ自身への理解を浅くする危険性も大いにあるとボクは思っている。
レッテル貼りという行為は概して対象への思考を怠惰にしてしまう危険性を孕んでいるからだ。
これは他人に対して使う場合だけでなく、自分に対して使う場合も同様である。
発達障害というラベリングをした(された)瞬間から、その人は「Aという人間」ではなく「発達障害のA」という扱いを他人からも自分からも(良くも悪くも)受けやすくなる。
とくに子供に対して安易に発達障害と診断をするのは、同世代の子からの偏見、親からの偏見、そしてその子自身の自分に対する偏見を生むリスクがあるんじゃないかと思っている。
そして僕が嫌いなのは自分に起こったあらゆる問題を「発達障害だから」に帰結させてしまう人間だ。
発達障害によって自分が形成されているのではなく、自分の中の特徴の一部を発達障害と名付けられているだけなのだが、順序が逆になっているんじゃないかと思う人が大量に目につく。
3位 思いやり
嫌いな言葉ランキング第3位は「思いやり」だ。
というのも、思いやりという言葉は一方的に要求されることが多く、なおかつ使用者がそれに気づいていないからである。
思考回路が少数派に属する者は、年を重ねるにしたがって(よほど鈍くなければ)自分がほかとは異質な考えを持つ人間だと自覚する。
そして自分の考えをそのまま表に出すことが、”空気”を壊し、他人を不快にさせることに気がつく。
そうなると自分の考えが間違ってるのではないかと疑ったり、他人と違う自分を責めたりするようになる。
そうした過程でいつしか自分もすっかり常識に染まり、自分も”ふつう”の概念から外れた人間を排除する多数派側に回ってしまう。
ただし自問自答の結果、それでも自分を曲げられず、少数派としての人生を歩む人間もいる。
そうした人間は生きていくために2つの視点もつようになる。
自分が本来持っている視点と”ふつう”の視点だ。
彼らが排斥されないためには、常に自分の言葉を呑み込み、少なくとも表面上は”ふつう”の考えに合わせなければならない。
つまり彼らは常に多数派を思いやり、自分の感情を抑えることを余儀なくされるのである。
少数派の考えを臆せず言える人間も中にはいるが、多数派からの反感を受け入れ、無数の攻撃を耐えられる強靭なメンタル(あるいは究極の鈍感さ)が要求される。
一方でもともと多数派と思考が一致する人間はどうか?
「自分の考え=多くの人が共感する意見」なのだから、少数派ほど頻繁に言葉を飲み込む必要性はない。
それで人生がうまく行くのだから、自分の考えに疑問を持つ必要性もない。
だから少数派の考えに対して何のためらいもなく
「思いやりを持て!」
「自分勝手なことを言うな!」
「もっと他人の気持ちを考えろ!」
と非難することができる。
要するに彼らの言う「思いやり」とは、自分を含む多数派への一方的な思いやりであり、そこに少数派への思いやりは存在しない。
もっと言えば一方的であることに気づいてさえいない。
どれほど少数派の理屈が通っていたとしても、
「つべこべ言わずに少数派は多数派に合わせろ」
という理不尽がまかり通り、少数派から多数派への一方的な”思いやり”が要求される。
2位 お前のためを思って~
嫌いな言葉ランキング第2位は「お前のためを思って言ってるんだ」というセリフ。
これに関しては当ブログで何度も書いてきて食傷気味なので、箇条書き3つにまとめる。
「お前のためを思って言ってるんだ」というセリフは…
- そもそも余計なお世話であり、
- 「自分が相手よりも正しい考えを持っている」という思い上がりが鼻につき、
- 自分の価値観を押し付けたいだけなのに「お前のため」という言葉で正当化しようとする卑怯なところがこの上なく不快である
1位 みんな
嫌いな言葉ランキング第1位は「みんな」である。
似たような言葉には「常識」「ふつう」といったものが存在する。
自分の意見を主張するのになぜ「みんな」が出てくるのか?
自分一人の頭じゃ何も考えられないのか?
「みんな」や「常識」や「ふつう」はこれまでに数えきれないほど過ちを犯し、コロコロと主張を変えてきたのに、なぜ未だにそれほどの信頼を寄せることができるのか?
そもそも彼らの言う「みんな」にはいつも僕が入ってないじゃないか。
誰なんだよ?「みんな」って。
彼らの言う「みんな」はただ自分と同じ考えの人たちを総称してるだけじゃないか。
数の暴力によって少数派を黙らせたいだけじゃないか。
嫌いな言葉を使う人に共通する特徴
以上、個人的に嫌いな言葉ランキングを紹介した。
もう一度おさらいしておく。
これらの嫌いな言葉を愛用する人間には、以下3つの共通点があることが多い。
- 論理ではなく空気で物事を判断する
- 他人から受ける被害には敏感だが、自分の加害性には極めて鈍感である
- 自分が善人であると信じて疑わない
「論理ではなく空気で物事を判断する」というのは、言い換えれば
自分の頭で物事を考えることができない
ということである。
そしてその自覚がないため、自信満々で自分の意見(=常識・世論)を主張できる。
メディアの撒いたエサに脊髄反射でかぶりつき、一方的な情報で誰かを叩くことに抵抗がない。
また彼らは自分が善人であることを疑わない。
他人の加害性にはヒステリックに騒ぐ一方で、自分の加害性には驚くほど鈍感なのだ。
おかげで少数派の精神をどれほど残酷に踏みにじろうが、つゆほども罪悪感を抱かない。
地を這うアリを踏み潰すがごとく、罪悪感を抱かないどころか踏みつぶしていることに気づいてすらいない。
だから彼らは、自分の踏みつぶしたアリの残骸を目の前にして
「命より大切な物はないんだよ!」
という寝言を臆せず吐くことができる。
>>不快快に思う人がいる以上やめるべきだ…という人間こそ不快だ
だから彼らは
「もっと他人の立場になって物事を考えようよ!」
と訴える一方で、体質的にマスクを着用できず苦しんでいる人間を平然と睨みつけることができる。
そういったマイノリティの存在は無視することができる。
だから彼らは
「あいつらは自分のことしか考えてない!」
と非難する一方で、自粛そのものによる影響で苦しんでいる人間のことは一切考えず、自分が”加害者”になる可能性をつゆ疑わずにいられる。
たとえ多くの人が救われる政策であっても、自分に得がなければ断固として反対する。
だから彼らは
「イジメなんて最低だ!」
と憤る一方で、週刊誌やネットのデマ記事を鵜呑みにし、小室さん夫婦をよってたかって袋叩きにできる。
失言した有名人へ向かって一方的に石を投げ続けることができる。
>>小室圭は何が悪いのか?【嫉妬とネットリンチが大好きな国民】
彼らは自分の行為が”善” であることを決して疑わない。
「みんな」「世論」といった権力の持つ暴力性や論理的矛盾をまったく疑わない。
なぜなら人は上手くいかなかったときに初めて自分の頭を使って反省するからだ。
常にみんなと一緒であれば、自らの感受性に疑いの目を向け、深い反省を余儀なくされる機会に直面することはそうそうない。
怒りも喜びも悲しみもみんなと共有できる。
たとえ失敗してもマスコミやみんなの責任にできるため反省する必要がない。
つまりこの国は論理ではなく空気で物事を判断したほうが共感されやすく、
論理的な思考力はちょっと欠けてるぐらいのほうが生きやすいのかもしれない。
この記事はそんな彼らに嫉妬を募らせた”社会不適合者”の醜い愚痴である。