こんなことを書くと不快に思う人もいるかもしれない。
だが日本は現在、空前の発達障害ブームである。
毎日のように目にする「発達障害」という言葉に対し、嫌悪感を覚えている人間も少なからず存在するのではないだろうか?
実際ボクは以下のような類の言葉が昔から大嫌いである。
- 発達障害
- ADHD
- アスペ(ASD)
- アダルトチルドレン(AC)
- HSP/HSC
- うつ病
とくに最近は発達障害が増えすぎだと感じてる人も多いはずだ。
しかし今の世の中でこんなことを公言すれば大いに顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。
「お前には生きづらい人たちの苦しみが理解できないのか?」
「当事者たちがどんなにつらい思いをしてるのか分からないのか?」
「恵まれた人間には私たちの気持ちなんて分からないだろうよ」
このように弱者の気持ちが分からない傲慢な人間として軽蔑の視線を向けられることは容易に想像できる。
しかし僕はどうも腑に落ちない。
彼らは本当に弱者なのだろうか?
仮に彼らが弱者であるとして、特定の診断名を下されることが本当に彼らの救いとなっているのだろうか?
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曖昧な発達障害の定義
そもそも発達障害とは何なのか簡単に整理しておく。
発達障害は大きく以下の3つに分類される。
- ASD・・・自閉スペクトラム症。通称アスペことアスペルガー症候群もこれに統合された
- ADHD・・・注意欠如・多動症
- LD・・・学習障害
それぞれの症状は厚生労働省による説明だと以下のようになる。
自閉スペクトラム症とは
引用:厚生労働省
コミュニケーションの場面で、言葉や視線、表情、身振りなどを用いて相互的にやりとりをしたり、自分の気持ちを伝えたり、相手の気持ちを読み取ったりすることが苦手です。また、特定のことに強い関心をもっていたり、こだわりが強かったりします。また、感覚の過敏さを持ち合わせている場合もあります。
注意欠如・多動症(ADHD)とは
引用:厚生労働省
発達年齢に比べて、落ち着きがない、待てない(多動性-衝動性)、注意が持続しにくい、作業にミスが多い(不注意)といった特性があります。多動性−衝動性と不注意の両方が認められる場合も、いずれか一方が認められる場合もあります。
学習障害(LD)とは
引用:厚生労働省
全般的な知的発達には問題がないのに、読む、書く、計算するなど特定の学習のみに困難が認められる状態をいいます。
一番下の学習障害(LD)だけ少し毛色が違うが、ネット上でよく目にするのはASDとADHDだ。
ちなみに日本の精神医療現場でおもに使われてるのは『DSM-5』という米国精神医学会の診断基準であり、そこにはもう少し詳細な診断基準が記されている。
さて簡易的な説明ではあるが、これらの特性を見てどう思っただろうか?
「自分の特徴に当てはまる」
と思うかもしれない。
あるいは
「これって誰にでもある程度当てはまるんじゃないか?」
と感じる人もいるだろう。
このような抽象的な診断基準で、果たして発達障害かそうでないかを明確に見分けることができるのだろうか?
発達障害が増えすぎる原因
発達障害者が増えすぎている原因とは何だろうか?
前述したように、発達障害は本来『DSM-5』という基準をもとに診断を下される。
その後、病気・障害の発見を目的とする「スクリーニング検査」のために、医師以外でも扱える簡易チェックリストが開発された。
これはちょっとでも疑わしい人は引っかかるように、本家よりも数段ゆるい基準が設けられている。
さらに今度は個人の専門家がオリジナルのチェックリストを作り出した。
続けて専門家ではない個人がより分かりやすいチェックリストを作り、ネットや本などを通してどんどん広めていく。
挙句の果てには発達障害と診断された当事者が“自分自身の特性”をあたかも“発達障害の特性”であるかのように発信しだした。
このようにして広まったのが現在ネット上にあふれている誰でも当てはまるチェックリストだ。
これはインチキ占い師によるバーナム効果のような影響を与える。
そしてこのような現状に困る者も当然出てきた。
発達障害を疑う患者の9割は……
ある精神科医の話では
「自分は発達障害ではないか?」
と疑い、精神科を訪れる人がここ数年で飛躍的に増加しているという。
そして肝心なのがその後で、
受診したうちの9割は発達障害の診断を下されないそうだ。
「何も問題はありません」と伝えると、彼らは不満そうな顔を浮かべ帰っていく。
なかには自分が発達障害と診断されないことで
「お前はヤブ医者だ!」
「じゃあ何で私はこんなに生きづらいんですか!?」
と怒り出す人もいるという。
こうした現象の原因になってるのが、先ほど述べた誰でも当てはまるチェックリストだ。
彼らは自分の生きづらさの原因が発達障害にあると信じることで、自らの責任を外在化しようとする。
ところが「あなたは発達障害ではない」と言われると、外在化した責任が再び自分のもとへ帰ってくる。
これに耐え切れず、彼らは医師を逆恨みしてしまうのだ。
それでも納得のいかない者は、自らの期待する診断を求めてドクターショッピング(医者巡り)を行う。
あるいは
「一番つらいのは定型(発達)と非定型の間にいて診断されないグレーゾーンだ」
と新たな枠組みを作り出す。
新たな線を引けばまた新たなグレーゾーンが誕生するためキリがないのだが。。
医師の診断にはどれほどの信憑性があるのか?
そもそも発達障害という抽象的な症状の集合体をホントに医師は見分けられるのか?
この疑問に答えるうえで、分かりやすい参考データがある。
2016年に相模原の障害者施設で19人の命を奪った事件はまだ記憶に新しい。
さてこの加害者だが、実は事件の前に緊急措置入院をしていた。
問題はこのとき彼に関わった精神科医4人の診断結果がすべて異なっていたことだ。
- 精神科医A・・・躁病
- 精神科医B・・・大麻精神病、非社会性パーソナリティ障害
- 精神科医C・・・妄想性障害、薬物性精神病性障害
- 精神科医D・・・抑うつ状態、躁うつ病の疑い
以上のように、4人の専門家がそれぞれ全く異なる名称の診断を下している。
だがこのような現象は氷山の一角に過ぎず、受診する医師によって診断結果が異なる事例は、もはや当たり前といっていいレベルで毎日起きている。
それどころか同じ精神科医に通ってるにもかかわらず、診断名がコロコロ変わる事例も珍しくない。
つまり精神科医の診断はあくまで“意見”であり、絶対的な“事実”ではないのである。
「発達障害と精神障害は違うじゃないか」
と思われるかもしれないが、発達障害も精神障害と同じ診断手法を使用している。
つまり発達障害でも似たようなことが当たり前に起こっているのだ。
科学的とは程遠い精神医学の現状
病気(疾患)の診断方法といえば、原因を突き止めて診断するというのが従来の手法となる。
ところが精神医学ではこの診断方法を使わない……というより使えない。
発達障害や精神障害はいまだ原因がほとんど解明されていないからだ。
現段階では、脳機能における“なんらか”の障害が原因(なんらかが何かは分かっていない)との考えが有力とされている。
ネット上ではドーパミン説など、さまざまな説が事実のように語られることも多い。
だがうつ病のモノアミン仮説と同様に、実際にはどれも仮説の域を出ていないのが現状だ。
要するに精神医学はほとんどが仮説で成り立っているのである。
では発達障害の診断にはいったいどんな手法が使用されているのか?
まずどこかの偉い学者たちが、特徴的な症状から病気を分類する。
現場の精神科医は彼らの作ったチェックリストを用いて、患者に該当する症状が一定数以上あればその分類に当てはめる。
これを操作的診断という。
操作的診断には客観的指標が存在しない。
たとえばほかの疾患なら血圧や心拍数などのバイオマーカー(客観的に測定できる生物学的指標)があるが、そうした客観的指標が発達障害にはない。
精神疾患の症状の多くは目に見えない主観的なものなので、患者の自己申告がおもな判断材料となる。
すなわち操作的診断は、
患者の自己申告に大きく依存し、診断する医師の主観も大いに影響を与える。
MRIや脳波検査などが行われることもあるが、これは鑑別診断といって他の疾患と鑑別するためのもの。
たとえば発達障害を疑って受診した患者が、脳波検査によって“てんかん”だと判明したりするケースもある。
MRIや脳波検査などで発達障害そのものを調べられるわけではない。
このような理由から、先ほどの障害者施設事件のように、受診する医師によって全く異なる診断結果が出てしまうのである。
“ホンモノの発達障害”なんて存在しない
ネット上を見るとホンモノの発達障害という言葉をよく目にする。
どうやら彼らの中ではホンモノとニセモノの発達障害が存在するようだ。
「お前らはホンモノの発達障害を見たことがないからそんなことが言えるんだ」
「ニセモノの自称発達障害と私たちホンモノの発達障害を一緒にされたくない」
こんなセリフがSNS上では飛び交っている。
だがこれまで述べてきた話を正しく理解できていれば、彼らがおかしなことを言ってるのが分かるだろう。
彼らの言う“ホンモノの発達障害”の特徴というのは、自分自身もしくは身の回りにいる発達障害とされてる人の特徴に過ぎない。
発達障害かそうでないかは医師ですら人によって診断結果が異なる。
そんな定義の曖昧なものにホンモノもニセモノもないだろう。
なんなら実際に医師の診断を受けて自分が“ホンモノの発達障害者”と思ってる人も、
別の医師にかかれば「発達障害ではない」と診断される可能性はある。
明確な基準が存在しないものをホンモノかニセモノかと区別することは不毛に思えて仕方ない。
発達障害ブーム
現在の日本は空前の『発達障害ブーム』と言われている。
ブームという言葉を使えば
「苦しんでる人に失礼だ!言い方を考えろ!」
という怒りの声が挙がることは容易に想像つくが、これは僕の感想ではなく事実なのだからしょうがない。
というのも精神医学界では精神障害は流行すると昔から言われているのだ。
たとえば1990年代、『24人のビリー・ミリガン』という本がベストセラーになった。
この本は多重人格を題材にした内容である。
するとその後、
「自分は多重人格ではないか?」
と医療機関を訪ねる人間が続出した。
もちろん彼らは多重人格でも何でもなかった。
2000年代にはうつ病がメディアで頻繁に取り上げられ、
「自分はうつ病ではないか?」
と精神科を訪れる人間が殺到した。
しかしこれも実際に診断してみると、結局ほとんどがうつ病ではなかった。
中にはうつ病を理由に会社を休み、旅行に出かける者も少なくなかったという。
その後も
- AC(アダルトチルドレン)
- 境界性人格障害(ボーダー)
- 新型うつ
といった診断名がメディアで取り上げられるたびに流行したが、やはりどれも9割以上は障害でも何でもなかった。
そして現在のブームとなっているのが発達障害(ASD・ADHD)やHSP(これに関しては医学的診断名ですらない)である。
だが先述したように、いざ専門家に見てもらうと勘違いがほとんどなのだという。
発達障害ブームに類似する現象
これらはどこかで聞いた話だと思わないだろうか?
そう、健康番組の放送直後に起きる現象とそっくりなのである。
「なんとなくダルい」
「いくら頑張っても痩せない」
「それってAという栄養素が足りないからかもしれませんよ?」
誰にでも当てはまりそうな悩みを指摘することで共感を獲得し、次にその原因が特定のなにかにあると思い込ませる。
続けて彼らはこう言う。
「Aという栄養素をカンタンにとれる食材は納豆です!」
すると翌日にはスーパーの納豆が一瞬で売り切れる。
だが果たして納豆は買った人たちはその後ダルさを解消できたのだろうか?
納豆を食べることでダイエットに成功したのだろうか?
そもそも悩みの原因はほんとうに「Aが足りないから」だったのだろうか?
人は原因が分からないものを恐れる
人は原因が分からないものを恐れる。
たとえ間違っていようが何らかの原因を示される方が心は落ち着くのだ。
だから
「○○の原因はこれですよ」
といった分かりやすい答えを提示されれば、あっさりそれを信じてしまう。
一方で
「○○の原因はAかもしれないし、BやCの可能性もある」
といった複雑な答えは、いかにそれが一番真実に近い回答であっても、分かりやすい論理を求める人にはなかなか受け入れられない。
答えが本人にとって都合の悪い内容であればなおさらだ。
彼らはより分かりやすく、より自分にとって都合の良い論理のほうに飛びついてしまうのである。
そして一度その論理を正しいと信じ込んでしまうと、彼らの視野はみるみる狭まっていく。
発達障害を診断される4つのメリット
そもそもの疑問として、彼らはなぜ発達障害と診断されることを望むのだろうか?
よく言われる理由は以下の4つである。
- 他者からの理解を得られる
- 自己理解を深められる
- 自分を責めずに済む
- 薬によって症状が改善する
これが発達障害と診断されることのメリットとされている。
こんなことを書けば当事者から反感を抱かれることは必至だが、どれも腑に落ちないというのが個人的な感想だ。
他者からの理解を得られる
まず最初に挙げられる理由が
「周囲からの理解が得られる」
というもの。
周りから正しい理解をされることで本人がより生きやすくなるだろうとの考えだ。
これまで怠惰・努力不足によるものだと思われていた現象を
「それは発達障害による症状だから仕方ない」
と周りが理解することで、彼らへの非難が軽減することなどが期待される。
だが
「発達障害だからできないんです」
と言われて
「ああ、それなら仕方ないね」
と納得してくれる物分かりのいい人が世の中にどれだけいるだろうか?
腫れ者扱いされる発達障害者
そもそも発達障害に対する世の中のイメージはどんなものだろうか?
ネットを見る限り、知的障害と混同してる人も珍しくない。
“自分たちとは全く別の生き物”と思っている人も少なくない。
身近にいる単なる変人を勝手に発達障害と思い込んでるケースも往々にしてある。
このように発達障害へのイメージは三者三様だ。
そして少なからぬ人がマイナスの印象を持っている。
発達障害と診断された当人ですら、自分の特性と発達障害の特性との区別がついていない場合が多いのだから、これらの世間の認識も無理はない。
こうした偏見から発達障害と診断された子供がクラスの中で腫れ物に触れるような扱いを受けてるという報告は腐るほど目にする。
あるいは発達障害枠で入社した社会人が腫れ物扱いされているという話も少なくない。
さてこのような偏見だらけの世の中で、発達障害という診断名を得ることが本当に他者からの理解につながるのだろうか?
むしろ理解を遠ざけ、偏見や差別を助長することの方が多いように思える。
自己理解を深める
自己理解を深める。
自分の長所・短所、得意・不得意を知ることで、それを前向きに活かしていける効果があるという。
だが正直なところ、これも大いに引っかかる。
自分の長所・短所や得意・不得意は、自分が誰よりも理解してるハズじゃないだろうか?
生まれてずっと見てきたはずの自分よりも、今日出会ったばかりの医者や、どこかの学者が決めたチェックリストのほうが自分のことを理解しているのだろうか?
本気でそう思ってるのだとすれば、それは自己理解ではなく、自己暗示の可能性もあるんじゃないかと邪推してしまう。
「人はラベルを貼られるとラベルに沿った行動するようになる」
という傾向が人間にはあり、これはラベリング効果と言われる。
自分が発達障害だと思い込むことで、自分の中の発達障害的な特性がより強化されるのだ。
発達障害の診断をされた子供にも同じようなことが言える。
親や教育者から期待されるラインが下がることで、その子供の成績や自己評価はますます下がっていく。
これは心理学用語でゴーレム効果と言われている。
これらの効果を裏付けるように、発達障害や精神障害と診断された人の中には、
「今まで普通にできていたことも診断されてからできなくなった」
というケースが少なくない。
自分を責めずに済む
自分を責めずに済むようになった。
診断されることで、自分のせいじゃないことが分かりホッとした。
発達障害と診断された人の体験談を見ると必ずと言っていいほど出てくるエピソードだ。
もちろんこれを全否定するつもりはない。
しかし全肯定する気にもなれない。
もともと自分を責め過ぎる人間にとっては、ある程度責任を外在化させるのもいいだろう。
だが一定の自責心は保っておかないと、一歩足を踏み外せばルサンチマンへの階段を転げ落ちることになる。
最近は自責感があたかも悪いモノであるかのように扱われる風潮がある。
「自分を責めないで!」という類の“優しい言葉”はウケがよく、非常に多くの共感が集まる。
しかしボクの個人的経験から言えば、
自責心を持たない人間の言葉ほど薄っぺらく感じるものはない。
偉大な表現者はみな鋭い自己批判精神を持っている。
あまりに強すぎると心が壊れてしまうのでバランスは大事だが、昨今のSNSなどを見る限り、むしろ他責思考の強い人間のほうが圧倒的多数だろう。
もともと他責思考の人間が『発達障害』という医師のお墨付き錦旗を得たらどうなるだろうか?
医師のお墨付きといっても精神医学の世界では“意見”の域を出ないのだが、それでも日本人の多くは医師という権威に弱い。
となると、さらに事態が悪くなることは火を見るより明らかだ。
薬によって症状が改善する
発達障害にはコンサータ、ストラテラ、インチュニブ、ビバンセという4つの薬が処方される。
効果が期待できるのはADHDだけであり、ASDには有効な薬がない。
さて肝心の効果だが、効く人と効かない人がいる。
効く・効かないと発達障害傾向の強さは関係なく、発達障害と診断されていない人間にも効果はあるという。
効く人にとっては集中力が上がり、ADHDの主症状とされるミスや忘れ物が軽減するようだ。
これは実際に数多くの報告があるので確かな事実だろう。
薬の副作用はあるのか?
ただこうした目覚ましい効果がある人ばかりではない。
人によってはどんな薬を処方されても効果がないという。
それどころか強烈な副作用に襲われるケースもある。
コンサータの製造販売元であるヤンセンファーマが提出した医薬品リスク管理計画書には、以下のように記してある。
【重要な特定されたリスク】
- 心血管系への影響(高血圧)
- 精神病性の症状(幻聴、幻覚、躁症状)
- 体重および身長の増加抑制(子供)/体重減少(成人)
- 易刺激性/攻撃性/敵意
- うつ病
- 依存症
- 肝不全、肝機能障害
依存性には個人差があり、まったく依存傾向が見られない人もいれば、やめたくてもやめられなくなった報告も出ている。
副作用も人によって個人差が大きい。
プラスに働く可能性もマイナスに働く可能性もあるため、使用するかどうかは慎重に決めたほうがいいだろう。
使わなくても済みそうなら使わないに越したことはない。
医師によって薬への姿勢が違う
以上のように薬はADHDに一定の効果が見られる場合もあるが、薬への姿勢は医師によって大きく異なる。
医師の中には発達障害の診断自体あまり下さず、薬もなるべく処方しない方針の者もいる。
その一方、簡単なチェックリストですぐに発達障害の診断を下し、患者の求めるがままに薬を出し、小さな子供に対しても平気で薬を処方する医師も存在するという。
だがここまで述べたように、発達障害かそうでないかをハッキリ区別するのは医者であっても難しいハズだ。
成長の個人差が大きい子供ならなおさらである。
にもかかわらず、副作用の危険がある中枢神経刺激薬を小さい子供に与える。
これは果たしてその子供にとってプラスになるのだろうか?
発達障害ブームの危険性
ここまで「発達障害ブーム」に対して長々と持論を語ってきた。
おそらく論旨を誤解している方も大勢いるだろうと予想しているので一応言っておく。
僕は決して『発達障害=甘え』という主張を展開したいのではない。
薬によって症状が楽になる人を否定するわけでもないし、
発達障害と診断されることによって救われる人間の存在も否定しない。
じゃあ何が言いたいのか?
主張は大きく分けて3つある。
ひとつは世に流れている情報が偏りすぎているという話だ。
発達障害を診断することのメリットは食傷気味になるほど発信されている。
しかし以下のようなリスクがほとんど語られない。
- ラベルを貼ることで却って差別を助長する危険がある
- 自己理解ではなく自己暗示になる可能性がある
- 薬の副作用で不幸になってしまう人間もいる
- 医師の診断を絶対視しすぎている
- 子供に対する診断は逆効果にもなり得る
- あらゆる問題を発達障害に還元するようになりやすい
- 他責思考の人間には免罪符を与えることになる
これはコロナの恐ろしさや自粛の必要性ばかりを発信する一方で、
自粛によって生じる損害に関しては一切報道しない昨今のメディアの姿勢にも通ずるものがある。
ベネフィットだけでなくリスクもセットで語るべきだろう。
2つ目は発達障害認定は対象への理解を浅くするという話だ。
最近では、冒頭で述べた“誰にでも当てはまるチェックリスト”を根拠に
- 会社のAさんは発達障害じゃないか?
- 同じクラスのBちゃんはADHDっぽいよね
- カミュの異邦人に出てくる主人公は発達障害だろう
- TVに出てるあの芸能人はアスペだな
と勝手な想像で他人を発達障害だと認定する人間がいたるところに存在する。
会ったこともない過去の偉人を発達障害と決めつける者も少なくない。
自分の理解できない人間にラベルを貼ることで、彼らは対象を理解したような気になる。
他人の作ったラベルを貼って満足し、自分の頭で対象について考えることをやめてしまうのだ。
この例に限らず、ラベルというのは貼った瞬間から思考を止める性質を持っている。
これは医師公認のラベルでも同じような側面がある。
とくに子どもの場合、一度貼られたラベルは二度と剥がせない。
一度診断されれば“発達障害のAちゃん”という色眼鏡で一生見られることになる。
本人のためという建前で他人の子どもに診断を勧める教師も多いようだが、これは行き過ぎたパターナリズムだ。
早期診断はリスクも多いため、よほど重度な症状が出ていなければ控えたほうが無難といえる。
訴えたいことの三つ目は視野狭窄に陥る危険である。
あらゆる事象の原因を発達障害という診断名に還元する人間が多すぎるのだ。
発達障害を自称する人の書いた体験談を読むと、必ずといっていいほど
「いやそれは発達障害関係ないでしょ」
とツッコミたくなる部分が多々出てくる。
たしかに問題Aは発達障害の症状とされるものかもしれない。
だが問題Bは別の要因によって引き起こされているかもしれない。
問題Cは彼らの言う”健常者”にも同様に存在する問題かもしれない。
にもかかわらず、問題A~Cの原因をすべて発達障害に還元する。
1つの考えにとらわれることで視野が狭くなっているのだ。
常にいろいろな可能性を疑う姿勢を持ち続けなければ、考える力はみるみる枯渇していく。