親ガチャという言葉が嫌いな人とそうでない人

親ガチャが嫌いその他いろいろ

最近『親ガチャ』という言葉がネット上で流行っているらしい。

親ガチャとは何かというと、

  • 子は親を選べず、誰の子に生まれるかは運次第
  • 生まれついた環境によって人生の大半が決まってしまう

ということを同じく運要素だけですべてが決まる「ガチャガチャ」に例えたものだ。

この親ガチャという言葉に対して嫌いという人とそうでない人が大きく別れているらしい。

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親ガチャという言葉が嫌いな理由

親ガチャという言葉に対するボクの正直な感想を言うと、あまり耳障りは良くなく、どちらかというと嫌いな言葉である。

なぜ嫌いかと言うと

  1. 生身の人間をガチャという”モノ”に例えることに対する抵抗感
  2. この言葉を発したとき脳裏に浮かんでくる親に対しての罪悪感
  3. すべてを環境のせいにする人間への嫌悪感

このあたりが原因になっているのだろう。

生身の人間をガチャという”モノ”に例える抵抗感

まず1つ目に関しては、親ガチャという言葉の意味そのものというよりも「語感」に対する抵抗心だ。

本来モノに対して使う言葉を人間に使う、ということに抵抗があるのだと思う。

たとえば歳を重ねた人間に対して「劣化」という言葉を使うのと、どこか似たような感覚が個人的にはある。

同じガチャという言葉を使うにしても「環境ガチャ」「才能ガチャ」という言い方ならそこまで抵抗感はなかったかもしれない。

親ガチャという言葉を発したとき頭に浮かんでくる親に対しての罪悪感

これに関してはある意味ボクが『親ガチャ』で恵まれてるから抱く感情といえるかもしれない。

親とは小さい頃から考えがまったく合わないし、理不尽に怒鳴りつけられる経験も多かったが、それでも感謝の気持ちを抱ける程度の愛情はたぶん受けてきたのだろう。

また時をさかのぼり、親父の金玉の中にいた時のことを思うと親父にはとても頭が上がらない。

とはいえ仮に親がとんでもないDQN野郎で、日常的にDVを行っているような親なら『親ガチャ』という言葉を使ったところで罪悪感など1mmも生まれなかった可能性はある。

実際問題そういった環境で育った子供は少なくないため、この言葉を使いたくなる人間の気持ちは分からんでもないし、全面否定する訳ではない。

すべてを親のせいにすることへの嫌悪感

これに関しては一概には言えないところがある。

たしかに生まれつきの環境が及ぼす人生への影響は大きく、家庭環境のせいで碌な人生を送れなかった人間もいるだろう。

そういった人間が親ガチャという言葉を使うのは無理ないかもしれない。

しかし中には単純に自分が怠惰な生活を送っていたことが原因で碌な人生を送れなかったボクのような人間もいる。

こういった単なるナマケモノが

「親のせいで自分の人生はダメになった」

と言っていたら、それは単に自分の努力不足を責任転嫁してるように感じてしまう。

要するに本当にどうしようもない劣悪な家庭で生まれた人間が

「親ガチャに失敗した」

というのは理解できるが、それほど悪くない家庭に育ったにもかかわらず

「人生がうまく行かなかったのは親ガチャで失敗したせいだ」

といった感じで、すべてを環境のせいにしてる人間は好きじゃないという話である。

努力次第で人生はどうとでもなるのか?

世の成功者に成功の秘訣を聞くとよくこんな答えが返ってくる。

「人はどんな環境で育っても努力次第で変わることができる」

「お前の人生がうまく行かないのはお前の努力が足りないからだ」

これは半分正解だが、半分間違いではないかと思っている。

というのも実際こうした成功者は意外とかなりの努力家で、一日14時間の作業を何年も続けていたり、とにかく自分に厳しい生活を送っていたりする。

凡人でもこのぐらいの作業量をこなすことができれば、ほかの人間よりも優位に立てる可能性は高いだろう。

ほとんどの凡人は彼らの半分の作業量もこなしていないはずだ。

ボクの人生なんかはまさにその通りで、現状は明らかに努力不足が生んだものである。

ただ世の中にはいくら努力しても報われない…という人間も少なからずいる。

そしてそもそも”努力”というもの自体、言葉にするのは簡単だが実際に続けようとするとなかなか難しい。

1年の努力を1日で上回る生まれつきの才能

たとえばボクの話で言えば、昔から声が小さいのが悩みだった。

20代前半ぐらいのとき、1年ほどボイトレスクールに通い、自宅での練習も毎日何時間も続けていた。

ネットのボイトレ関係の記事は読み漁り、当時はボイトレに関する書籍はもちろん、脳の機能や呼吸に関する書籍まで何十冊も読んでいた。

しかし結果として以前よりは多少マシになったものの、いまだによく言葉を聞き返されるし、期待していたほど声が大きくなることもなかった。

1年練習しても、おそらく1日もボイトレなどしたことのないだろう生まれつき声のでかい人間に声量でまったく敵わないのだ。

これはボイトレに限らず、いろんなジャンルで似たような経験をしている。

一方で逆に得意だったこともある。

勉強なんかは昔から割とできる方で、まったく授業を聞いてなくてもテストの1日、2日前に勉強すれば8割9割以上の点数は取れていた。

もちろん塾などは一度も行ったことがない。

現代文なんかは授業も聞かず、勉強もせず、本も読まず…それでも毎回満点近い成績だった。

その一方で毎回授業を真面目に受けていても成績が悪い人や、いくら勉強したり本を読んでも現代文の点数が上がらないという人間は大勢存在する。

要するにいくら努力しても、まったく努力してない人間に敵わないという現象は世の中にたくさんあるということだ。

たとえば1年努力したにもかかわらず1日しか努力してないやつに敵わない…なんてことがあれば、さすがにやる気もなくなるし、努力を続けることも難しくなってくる。

だから

「人はどんな環境で育っても努力次第で変わることができる」

「お前の人生がうまく行かないのはお前の努力が足りないからだ」

というのは当てはまる人も大勢いるが、そうでない人もそこそこいると思っている。

それでもやっぱり親ガチャという言葉は嫌い

このように

「努力だけではどうしようもない生まれつきの不平等」

というのはあらゆる日常のシーンにあふれている。

そのこと自体を否定するつもりはないのだが、『親ガチャ』というワードはやっぱりどうも好きになれない。

冒頭で言ったように

  • 生身の人間をガチャという”モノ”に例えることに対する抵抗感
  • この言葉を口にしたとき脳裏に浮かんでくる親に対しての罪悪感
  • 何もかも環境のせいにする人間への嫌悪感

これが親ガチャという言葉を嫌いにさせているのだろう。

とはいえ人生を左右してしまうほど劣悪な家庭環境というのは実在するので、親ガチャという言葉の内容自体を全否定するわけではない。

ただ流行語のように軽い気持ちで『親ガチャ』という言葉があちこちで使われるのはなんだかな…というのが正直な気持ちだ。

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