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太田光『芸人人語2』の感想とアンチ爆笑問題への悪口

だいぶ前に書いたことがあるが、僕は子供の頃からずっと爆笑問題のファンである。

爆笑問題が嫌いな人や昨今の太田さんの発言に共感できない人にとってはおそらく不快な内容となるので、ここから先は見ないことをおすすめしておく。

さて、先日発売された太田さんの新刊を読んでみた。

これは『一冊の本』という雑誌に連載されている『芸人人語』をまとめたものの第2弾だ。

(以後『芸人人語2』と呼ぶことにする)

文量はそこそこ多く、全333ページとなっている。

ただし平易な文体で書いてあるので、活字慣れしてる人であればサクッと読めるだろう。

今回書くのは『芸人人語2』の感想が3%ぐらい。

残り97%は以前からずっと溜まってたアンチ太田光への悪口と自分語りである。

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芸人人語2の感想

太田さんは年間100冊から150冊ほどの本を読む芸能界きっての読書家である。

そのため一般的なタレント本と比べると、やや硬い内容の話も少なくない。

興味のない人にとっては退屈に感じる話題もあるだろう。

以下は『芸人人語2』に書かれた比較的読みやすいテーマの一例だ。

(※公式タイトルではな)

  • オリンピック
  • 小山田圭吾
  • コロナ
  • ジョーカー
  • 安倍元首相

この内のいくつかは当ブログでも取り扱った話題である。

表現の方法や細かい意見の違いはあるが、大まかな方向性としては、僕が述べたものと太田さんが述べてるものはそんなに変わらない。

たぶん僕と太田さんの思考回路には似たような部分があるのだろう。

ただし大きく異なる部分もある。

それはズバリ器の大きさだ。

日頃からこのブログを見てる人はご存知だと思うが、僕は極めて器が小さく、愛情を向ける対象がかなり限定的である。

なるべく汚い言葉を使わないように意識しているが、内容そのものは攻撃的であることも少なくない。

一方で太田さんが愛情を向ける対象はかなり広域にわたる。

意見が異なる者に対してもできるだけ否定しまいという心遣いが言葉の端々から見て取れる。

意見が異なる者に対してわざわざ書く必要のないイヤミを書いてしまう僕とは大違いだ。

僕と彼の違いがよく分かる例として、『芸人人語2』に書かれたエピソードをいくつか挙げてみよう。

小山田圭吾と太田光

小山田圭吾氏といえば過去の醜悪ないじめエピソードが掘り起こされ、オリンピックの作曲担当を辞任するハメになった音楽家である。

知ってる人も多いと思うが、太田さんは小山田氏に対して擁護ともとれる内容を以前サンジャポで話している。(厳密には擁護とも少し違うんだけど)

『芸人人語2』でもかなりの行数を割いて考えを述べていた。

以前サンジャポで太田さんが発信した小山田氏に対する考えは、ネット上ではすこぶる評判が悪い。

その中には

「こいつら身内には甘いんだよな」

という書き込みもいくつか目に入った。

だが小山田氏に関しては太田さんの身内でないどころか、むしろ昔からあまり良い印象を抱いていなかったという。

太田光は何の得もしないことをする

小山田氏がやっていた音楽は当時渋谷系やサブカル系とも呼ばれ、一部のおしゃれな層に流行っていた。

こうしたジャンルのアーティストやその聴衆には、世の中に対して斜に構え、売れているコンテンツを小馬鹿にするような傾向がある。

小山田氏にもその傾向が多分にあり、サザンやミスチルといった王道が好きな太田さんはそんな彼をよく思っていなかった。

(今でもその手の勘違いをした自称音楽通は多く、僕も彼らにはあまりいい印象を持ってない)

もともと良い印象を持っていなかった人間が、過去の醜いイジメが原因で叩かれている。

雑誌に書かれていたことが事実であれば、犯罪といっても差し支えない非道な内容だ。

そんな非道に手を染めた小山田氏を庇うような発言をすれば、四方八方から批難の矢に見舞われることは容易に想像できる。

身内どころか元々悪い印象を持っている人物を、危険を冒してまで擁護する人間がどこにいるだろうか?

少なくとも僕ならまずやらない。

ところが太田さんはそんな危険も顧みず、小山田氏の擁護ともとれる発信をした。

何の得もしないどころか大損することが分かりきっているにもかかわらずだ。

ここに彼の誠実さが見て取れる。

姿勢の話

太田さんの言いたいことを解説するとかなり長くなってしまうので割愛するが、彼は決して小山田氏の残虐な行為そのものを肯定してる訳ではない。

と言っても、たぶん伝わらない人が多いだろう。

たとえ彼が語っている内容を全文ここに書き起こしたところで、理解できる人はそう多くないんじゃないだろうか。

彼もそんなことは百も承知である。

小山田氏を擁護するような発言をすれば、自分が総叩きにされるのは誰よりも彼自身が理解している。

それでも太田光は自分が正しいと思ってることを伝えようとした。

僕がここで言いたいのは、彼の発言内容の善し悪しではない。

自分の身を危険に晒すと分かっていながらも誠実に語ることを選ぶ、彼の姿勢が尊敬できるという話だ。

僕も世論とは異なる意見を発信するスタイルでブログを書いているが、正直なところ読者離れを恐れて沈黙したことは数え切れないほどある。

主張の正当性を確信しながら、批判が怖いという理由で投稿せずにゴミ箱へ捨てた記事は50を超えている。

ほとんどコメントが来ない個人ブログですら、ビビって本音を飲み込んでしまうのだ。

ところが太田さんは数百万人が見てるテレビで、世論と真っ向から対立する意見を主張している。

無名ブロガーが発信するのとは比べ物にならないほど反発があるだろうし、相当の覚悟がないとできないだろう。

太田光の誠実さ

小山田事件に限った話じゃない。

彼はたびたび世論とは異なる意見を発信してきた。

これはとても勇気のいる行為である。

こうした彼の言動に対し「逆張り」だの「目立ちたいだけ」だのといった幼稚な推論を述べる人間が多い。

理解できないことがあるとすぐに安易なレッテルを貼るのは思考力の乏しい人間に共通する特徴だ。

無名のYoutuberならともかく、あれだけの成功者が今更そんなつまらない理由で危険を冒す発言をするメリットがないことは少しでも想像力があれば分かるだろう。

損得で判断するなら、黙っていた方がはるかに得である。

あるいはつい先日までやっていた昼のワイドショーのように、世間と一緒になってターゲットを叩いた方が好感度は上がるに違いない。

にもかかわらず世間が反感を抱くであろう発信をするのは、

損得よりも自身の道徳的義務を優先する誠実さが彼にあるからだ。

以前、

『他人を不快にさせる発言ほど価値がある』

という記事を書いた。

(これも多くの人に反感を抱かれそうなタイトルだが)

その中で

「自分を危険に晒すと分かっていてなお真理を語る人間のことを、古代ギリシャの言葉でパレーシアステースと呼ぶ」

という話をしたが、僕は太田さんこそまさにパレーシアステースの好例だと思っている。

彼の発言は多くの人を不快にさせるだろう。

それは本人が誰よりも分かっている。

そしてその結果、数え切れないほどの非難が自分に向けられ傷つくことも、本人が誰よりも理解している。

だからこそ彼の言葉は、安全圏から無難な言葉しか発しない人間の言葉よりも価値があり、信用できるのである。

水と油

太田さんは物事を論理的、俯瞰的に見る能力に長けている。

バラエティ番組で見せるハチャメチャな芸風とは裏腹に、世の中がメディアの煽動に流されているときほど彼は冷静な発言をする。

彼がおかしなことばかり言ってるように見える人は、メディアに洗脳されてる可能性が濃厚だ。

統一教会を批判するより前に、自身がワイドショー教会から脱会したほうがいいだろう。

一般に論理的思考を得意とする人間は、その逆の人間を嫌う傾向がある。

どれだけ懇切丁寧に噛み砕いて説明しても理屈が通じない歯がゆさを、幼い頃から何度も経験しているからだ。

感情的な人間と論理的な人間は、まさに水と油の関係と言っていい。

しかし太田さんには嫌いな人がほとんどいないという。

これはどうも嘘ではないようで、僕だったら出会って5秒で嫌いになるようなタレントとも彼は分け隔てなく仲良くやっている。

真面目なテーマではどんなに意見が合わなくても、別の場面では「それはそれ、これはこれ」と完全に切り替えた対応ができるのだ。

これは精神的に未熟なボクにはとてもできないことである。

ハッキリ言って理屈の通じない人間と話すとイライラしてしょうがない。

一般的にはおそらく太田さんの態度のほうが好ましいのだろう。

合理的でないからといって、決してその人の性格自体が悪い訳ではない。

いやむしろ感情的な人ほど(敵とみなされない限りは)優しかったりする。

ボクもかつては今ほど感情論を言う人を嫌っていなかった。

彼らへの嫌悪感がとくに強まったのはここ3年ぐらいだろうか。

自己矛盾だらけでも平気な人たち

僕は今から約3年半前にブログを始めた。

ブロガーに限らず多くの表現者がそうだと思うが、なるべく多くの人に見られたいと思って文章を書いている。

より多く見てもらうためには、世の中の人たちが

  • 普段どんなことを考えているか
  • どんなことを好ましいと思うのか
  • どんなことを不快に思うのか

というのを知る必要がある。

僕はブログを始めてから、Twitterやニュースサイトのコメント欄などを頻繁に観察するようになった。

どちらもそれまでは時間の無駄だと思って、なるべく見ないようにしていたものだ。

観察を続けるにつれて、以下のような思いがどんどん強くなってくる。

「なんで彼らはこれほど幼稚なコメントばかりするんだろう?」

どうしても傲慢な物言いになってしまうが、これが正直な感想である。

驚くほど読解力が低く、恐ろしいほど感情的で、悲しくなるほど理屈が通じない。

そしてなにより彼らには自己批判精神というものが微塵も存在しないのだ。

「イジメなんて最低だ!」

と主張したかと思えば、同じ人物が小室さん夫婦への集団リンチに平然と参加する。

「学校でしか学べない大切なことがあるんだよ!」

と説く一方で、自分の価値観をよその家庭に押し付け、よく知りもしない家族をよってたかって非難することになんの疑問も抱かない。

「被害者の気持ちが分からないのか!」

と叫びながら、『#太田をテレビに出すな』などといったハッシュタグをなんの抵抗もなく書き込み、これ以上ないほど陰湿なイジメをやってのける。

「マスゴミは最低だ!」

といいながら、そのマスコミが作り出した世論に毎度騙され、マスコミの思うがままにマインドコントロールされていることに全く気づかない。

自省能力など欠片も持ち合わせていない彼らは、自己矛盾だらけの言動に何の違和感も抱かない。

そして残念なことにこれらは一部の声ではなく、むしろネット世論の主流を占めている。

関連記事 なぜネットのコメントは気持ち悪いものばかりなのか

太田光は優しい

太田さんが番組内で

「互いに傷つけ合う言葉が飛び交ってる現状は良くない」

「日本人同士で分断するのは良くない」

みたいなことを言ってるのを何度か聞いたことがある。

ボクも昔はそんな考えだった。

しかしネットのコメントを毎日観察しているうちに、

  • 彼らがいかに何も考えていないか
  • 彼らに理屈を語ることがいかに不毛であるか
  • 自らの考え(=メディアに植え付けられた考え)に異を唱える者に対して彼らがいかに残虐であるか

というのがハッキリ分かってくる。

彼らには言葉が通じないのだという思いが、観察を続けていく中でどんどん強まっていった。

こうした差別心を持つことは良くないことのような気もしていて、しばらく葛藤があったのだが、この感情を抑えるだけの器の大きさがボクにはなかった。

一方で太田さんは『芸人人語2』でこんなことを書いている。

「コロナ禍」と呼ばれるこの数年間。私が何度も感じたのは、日本人の「我慢強さ」「繊細さ」「慎重さ」「真面目さ」「優しさ」「協調性の高さ」「清潔さ」だ。それは同時に私から見ると「じれったさ」でもあり、「臆病さ」でもあり、ルールを破る者、生活の自由を主張する者、空気を乱す者に向けられる「残酷さ」でもあり、「主体性の無さ」でもあった。

太田さんは彼らの「残酷さ」をしっかり認識している。

とくに彼がサンジャポや太田総理で持論を主張するようになってからは、おそらく普通の人が体験する何千倍も「残酷さ」を味わってきたことだろう。

にもかかわらず、その残酷さに無自覚な者たちの良いところも見ようとしている。

物の考え方がまったく合わない(ように僕には見える)タレントとも仲良くしているのがその証拠だ。

とことん根が優しい人なのだと思う。

一方で僕は、もはや彼らの「残酷さ」や、それに気づかない「鈍感さ」にしか目がいかなくなっている。

長いこと観察しすぎたのか、彼らへの軽蔑心が後戻りできないところまで増大してしまった。

多くの善良な市民の目には、僕がとても嫌な人間に映るだろう。

太田光は知識がないという書き込みをよく見るが……

ネットではよく

「太田光は言ってることが薄っぺらい」

「太田光は知識がない」

「太田光は感情的な意見を押しつけてるだけだ」

といったコメントを目にする。

だがこうしたコメントをしている者のなかに、太田光より知識があり、発言に深みがある人間がどれだけいるだろう?

彼は毎年100冊以上の本を読み、大手新聞4紙の社説やニュースをこまめにチェックする習慣をずっと続けている(……とwikipediaに書いてあった)

一方で社会人の平均読書数は年間6冊未満。

約半分の人間はまったく本を読まないという。

ネット上のコメントを見る限り、短い文章ですら読めない人間も相当数存在する。

このような現実から考えると、太田光よりも知識がある人はむしろかなり少数派なのではないだろうか?

(まさかワイドショーやSNSなどで目にする偏った断片情報を“知識”だと思ってる人はいないと思うが)

少なくとも僕の見た限りでは

「薄っぺらい」

「知識がない」

「感情的」

という言葉は、ネットで口汚く彼を罵倒している人間にこそふさわしい形容詞のように思える。

いったいどんな人間が太田さんに否定的なコメントをしているのか、彼らのプロフィールを辿ってみた。

するとそこには、毎度のごとくメディアの煽動に流され、一方的な情報を鵜呑みにしている人間ばかりが次々に出てくる。

あるいは政治家への文句を年中つぶやいてるアレな人たちも少なくない。

いくら探しても彼らの中に知性と呼べるようなものは見当たらなかったのだが、なぜ彼らはあれほど自信に満ち溢れているのだろう?

この世で一番不快な現象

これは太田さんだけでなく、メディア人でいえば

  • 三浦瑠麗氏
  • 古市憲寿氏

などにも同じような現象がたびたび見られる。

かたや東大卒の政治学者、かたや慶応卒の社会学者。

言うまでもなくその辺の一般人など比べ物にならないレベルの知識を持ってる方々だ。

もちろん知識があってもそれを扱うだけの思考力が伴わないエセ知識人は大勢いる。

だが彼らがその類ではなく、知識に見合った思考力を持っているのは、見る人が見ればすぐに分かるだろう。

わからない人はおそらくこの先も共感できない話が続くと思うので、そのままページを閉じることをおすすめする。

彼らはたびたび世論とは異なる主張をする。

このとき多くのネット民は彼らの主張の意味を理解できない。

そしてそれが自らの知識不足や理解力不足に起因するとは考えず、

「自分が理解できないのはあいつが馬鹿なことを言ってるからだ」

という誤った推理をノータイムで採用してしまう。

しかし以下の二者を想像してみてほしい。

  • ろくに本も読まず、テレビやSNSなどから得た情報をそのまま発信してるだけの人間
  • 日頃から大量の本を読み、自分の頭で考えた意見をしっかり持っている一流大卒の学者

客観的に見れば、後者の意見のほうが信頼性が高いのは誰の目にも明らかだろう。

だがネット民にそうした合理的判断力はなく、なぜだか前者にあたる自らの意見に絶対の自信を持っている。

もちろん後者の言うことを鵜呑みにするのは単なる権威主義であり、思考停止以外の何物でもないが、少なくとも真剣に耳を傾け、再考するぐらいはしてもいいはずだ。

彼らの意見はメディアから受け取った情報をただそのまま主張してるだけであって、そこに自分の頭を使って考えた形跡はまったく見られない。

どう見ても一方向からしか物事を考えていない単純極まりない主張なのである。

彼らが考えつく(=小学生でも秒で思いつく)凡庸な主張などとっくに反駁した上で、それよりもずっと先の話をしているということが想像できないのだ。

こうした現象はネットのあちこちで見られるが、精神が未熟なボクはこれに毎度苛立ってしまう。

思慮深い発言ほど馬鹿にされ、浅薄な発言ほど称賛されるこの世界が、これ以上ないほど腹立たしく歯がゆいのである。

群衆は推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に代わる傾向を有する。

『群集心理』ギュスターヴ・ル・ボン

上記の引用は、19世紀末にフランスの心理学者ル・ボンが群集心理について記した内容の一部。

この本で述べられている「群衆」の特徴は、びっくりするほど現代のネット民の特徴と一致する。

太田光ほど偉そうという言葉が似合わない人はいない

「太田光は偉そうだ」

「太田光は調子にのってる」

などと評する声も少なくない。

どれだけ人を見る目がないのだろう?と思う。

太田さんを批判する人の多くに共通するのだが、彼らは物事の表面的な分かりやすいところしか見れない傾向がある。

白と黒のあいだに広がる無彩色を認識できない。

大ざっぱに空気を読む力はあっても、行間を読む力や微妙な差異を認識する力はないのだろう。

太田光クラスの大御所で、彼ほど「偉そう」という言葉が似合わない人はそうそういない。

あれだけ後輩芸人から雑な扱いをされてヘラヘラしてる大御所がどれだけいるだろうか?

あれだけの実績がありながら、いまだに若手に混じって漫才をやり続ける芸人がどれだけいるだろうか?

年末年始にはお笑い番組が次々に放送される。

爆笑問題はその多くに出演しているが、それぞれの番組で違うネタを披露する。

多忙な中、毎回オリジナルのネタを作り続けるのは相当ハードな作業だろう。

しかも大勢の人を笑わせるという難易度の高い要求に対して、毎回大トリとして応えなければならない。

滑ればつまらないと言われ、ウケをとってもすぐに忘れられる。

すでにある程度の地位を築いてる彼らにとって、漫才番組への出演はメリットよりもデメリットの方が大きいようにも思える。

実際ある程度の地位まで上がると、そうした番組にはほとんど出なくなる芸人がほとんどだ(それが悪いわけではない)

それでも彼らが出続けるのは、損得とは無縁のお笑いに対する信念や、初心を忘れない謙虚な精神を持っているからだろう。

サンジャポは偏向報道が少ない貴重な番組

世論が一つの方向に向かっていく「全体主義」の危険性は、ある程度の敏感さを持つ人なら誰もが理解できる。

そしてほとんどのワイドショーはこの全体主義を加速させるものである。

そんな偏向報道が多いテレビの中で、サンジャポは唯一安心して見れるワイドショー番組だ。

番組内でもそうした全体主義に流れてしまいそうな場面はたびたび出てくる。

しかし最終的には太田さんか杉村太蔵さんが偏ったバランスを揺り戻す発言をして締めくくり、次の話題へと進む。

「空気の読めないキャラ」で通っている彼らが人一倍空気を察知する能力に長け、空気が持つ恐ろしさを熟知してるというのは何とも皮肉な話だ。

こうした他のワイドショーとは一線を画すサンジャポに対し、

「偏向報道だ!」

などというコメントが次々に出てくるのを見たときは心底呆れてしまった。

君たちがいつも鵜呑みにしてるワイドショーこそが偏向報道であって、言葉の使いどころを完全に間違えてるよ。

爆笑問題との出会い

爆笑問題はボクが生まれて初めて好きになった芸人だった。

小学生のときからなんとなく好きで、高校時代にラジオを聴きだしてからますます好きになった。

テレビで面白いと思ってもラジオを聞くとガッカリする芸人はたくさんいる。

だが爆笑問題はむしろテレビよりもラジオの方が魅力的な芸人だ。

面白さだけでなく、人柄の良さや知識の多さ、頭の良さがラジオではよく伝わってくる。

暗い青春時代を過ごした僕にとって、爆笑問題の出ている番組を見ている時間はイヤなことを忘れられる数少ない瞬間だった。

ボクが昔からネットのコメントを異様なほど嫌っているのは、そんな爆笑問題がいつ見てもボロクソに叩かれてるというのも原因のひとつかもしれない。

太田さんは自分への批判もギャグにしたり強がったりして見せていることが多い。

だが彼ほど他人の心を思いやれる繊細な人間が、これだけ不特定多数の人間から酷い言葉を浴びせられて傷つかないはずがない。

いつか突然メンタルが崩れて……なんてこともあり得るんじゃないかと心配になる。

……もともと書評をしようと思って書き始めた記事なのだけど、いつの間にかとんでもない愚痴記事になっていた。

まったく書評になってないなこれ。