今回のタイトルを見て
「他人の批判しかできない人を非難する記事かな?」
と思った読者もいるかもしれないが、このタイトルはボク自身を指している。
つまりボク自身が批判しかできない人なのである。
「他人の批判ばかりするネット民がむかつく!!」
という想いでこの記事を開いた人は↓のページで書いた内容のほうが要望に合うと思う。
他人を褒めるのが異常なほど下手
先日、数年ぶりにドラマを見た。
別にドラマが嫌いなわけではなく、一度見だしたらハマることも多い。
ただハマるまでの最初の数十分を見るのが面倒くさいため、しばらくドラマから遠ざかっていた。
今回見たのは『未来への10カウント』というキムタクが出ているドラマだ。
主演のキムタクや主題歌に起用されたB’zが好きなことから、久しぶりにドラマを見てみようという気になった。
普段ひねくれた文章を書いてるが、このへんは一般的な感受性を持っている。
ドラマの感想はというと、ふつうに面白かった。
キムタクもB’zも相変わらずかっこいい。
学生役の女の子もカワイイ。
……
……実は当初ボクはこのドラマの感想記事を書こうと思っていたのだが、まったく筆が進まない。
いくら考えても、上に書いた小学生のような感想文が数行浮かんでくるだけだ。
400字詰め原稿用紙を3行しか埋められなかった小学生時代に戻ったかのようである。
ドラマ自体はホントに面白かった。
とくに批判したいところもない。
ドラマ側に問題があるというよりボクの執筆能力に問題があるのだ。
批判しかできない人
なにかを批判する記事を書くときは、ノープランで筆を走らせてもすぐ3000文字ぐらいに到達する。
とくに多数派の意見と自分の意見がズレてるほど勢いよく筆が走る。
しかし何かを褒めようと思うと途端に筆が進まない。
以前マンガの批評記事を書こうとしたときもそうだ。
好みじゃないマンガの短所ならあっという間に2000字以上書けるが、反対に好きなマンガを褒めようと思うとまったく言葉が続かない。
無理やり言葉を紡いでも、ありふれた表現ばかりが並び自己嫌悪に陥る。
嫌いなものが「なぜ嫌いか」を言語化するのは朝飯前だが、好きなものが「なぜ好きか」を言語化しようとすると、途端に小学生レベルの文章力になってしまう。
「すごい!」
「ヤバイ!」
「うまい!」
こんな誰にでも言える感想しか出てこなくなる。
小学生でも多分もうちょいヒネリのある感想文を書けるだろう。
まさにボクは『批判しかできない人』なのである。
他人の批判ばかりする人間
普段のボクは何を聞かれても1行ぐらいしか答えられないコミュ障だ。
たとえ好きなことに関する話でもスムーズに言葉が出てこない。
しかし自分の気に入らない物事を語るときに限り、言語能力が80倍ぐらいに跳ね上がる。
オタクは自分の興味のある話題のときだけ饒舌になると言うが、ボクは他人の欠点を語るときだけ饒舌になる。
いったい何がどのように不快なのか、どんな理由で気に食わないのか、凄まじい熱量でどこまでも詳細にその理屈を語ることができる。
友人がゼロなのも納得な才能だ。
受け取る側も同じような意見を持っていたならスッキリするかもしれない。
ただ真逆の意見を持った人からすれば不快極まりないだろう。
本音むき出しの強めな言葉は、共感できる内容ならば一種のカタルシスを得られるが、共感できない場合には非常に強烈な不快感をもたらす。
もちろんこんな特技は人を離れさせるだけである。
おまけにボクは世の中で常識とされてるものほど批判の熱量が上がる。
熱量が上がると良くも悪くも文章が感情的になり、結果として常識的な感受性を持つ多くの人たちから嫌悪感を持たれる。
自己批判
ただこうしたボクの「批判したがり気質」は、自分自身にも向けられる。
昔から誰よりも自分をボロカスに批判してきたのがボク自身だ。
幼少期からボクは自己批判と自己弁護を気が狂うほど繰り返してきた。
このブログで執筆した文章だって、批判的な自分がいつもボロクソに貶してくる。
「またつまんねえ記事書いたな」
「それ昔書いた内容と矛盾するじゃん」
「こんな記事投稿するぐらいなら書かない方がマシだろ」
「これでまた読者が離れていくだろうよ」
批判的な自分によって、一度完成した記事を何十回、何百回とゴミ箱に捨てられてきた。
批判精神がとくに荒ぶってるときは一切文章が書けなくなる。
このブログではある種エゴむき出しな主張を繰り返してきた。
だから僕のことを現実世界でも自分勝手なふるまいばかりしてる人間だと思ってる人がいるかもしれない。
だが現実世界の僕は小さい頃から人目ばかり気にする人生だった。
「こんなこと言ったら不快に思われるんじゃないか?」
「本音を言うと嫌われそうだから黙っておこう」
常に他人からどう思われるかを気にし、他人の一挙一動にビクビク怯えながら自分を出さないようにしている。
小学生にも敬語で話すぐらい腰が低い。
小中学時代は他人の目が気になるあまり、一言もしゃべれない子供だった。
常にボクの中の批判精神が
「周りの人間を不快にさせるな」
「おまえが本性を出せばみんなから嫌われるんだから大人しく周りに合わせておけ」
とボクの言動を制してくる。
その結果、現実世界ではさほど嫌われもしないが好かれもしないという現状に落ち着いている。。
批判をやめない理由
ただボクはせめて自分のブログでは自分に正直になろうと思っている。
嫌われることもある程度覚悟して文章を書いてきた。
たとえばちょっと前に書いた「箸の持ち方の話」だと、ある調査結果では8割の人が他人の箸の持ち方を気にするらしい。
8割の人を全力で否定する文章を書いているのだから、当然離れていく人も多いだろう。
(ただし調査サイトによって6割だったり、どの程度気にするかも曖昧なので、実際の比率はよくわからない)
このブログでは空気を読まない発言ばかりしてきた。
しかし幼少時代から誰よりも周りの目を気にしてきた人生なので、実は誰よりも空気を敏感に読める自信がある。
だからこそ”空気”が持つ暴力性や非論理性もよく知っている。
多くの人が当たり前のように肯定感を持つ常識ほど、その陰では不満の声を出せない少数派の人間が肩身の狭い思いをしている。
だからそういった賛同者の少ない、空気を読まない意見こそボクは書く価値があると思ってる。
批判しかできない人のルール
ちょっと自己弁護してみたが、結局のところボクが『批判しかできない人』であることに変わりはない。
ただし批判するときはボクの中で3つのルールを設けている。
完全に自己満のルールなので、おかしな点はあるかもしれない。
1つ目はあまりに品のない罵倒用語は避けること。
たとえば
「馬鹿」「あほ」「頭が悪い」
といった単語をそのまま使うと途端に文章が稚拙になる気がするため、基本的には自虐以外で使用しないようにしている。
(”ばかばかしい”などの単語はセーフ)
2つ目は特定の個人への批判はなるべく避けること。
抽象的集団への批判よりも具体的個人への批判のほうが受け取る側のダメージがはるかに大きいから。
さらに個人をターゲットにすると批判と悪口の境界線があいまいになりがち。
それと単純に自分の株を下げるからというのもある。
ただこれに関しては覚えてる範囲で2回破っている。
言い訳をさせてもらうと、1人目は詐欺行為に対する批判、2人目は本人への批判というよりも社会現象へのアンチテーゼとして書いた。
3つ目はできる限り論理的に述べること。
たとえ批判の対象者やそれを支持する人間が見ても
「これは一理あるな」
と納得できるように、できる限り論理的に問題点を述べるようにしている。
まあ実際には批判される側が批判する側の意見を受け入れるのは非常に困難だと思うが。。
批判自体は悪ではない
僕の考えとして批判という行為自体は悪ではないと思っている。
あらゆる学問は批判によって発展して来たワケだし、行き過ぎた相対主義は思考放棄につながる。
じゃあなぜヤフコメやTwitterに存在する批判の数々がこれほど気に食わないのか?
それは『知恵』を感じないからである。
メディアの撒いたエサに反射的にかぶりつき、よく考えもせずにターゲットを袋たたきにする。
あるいは批判の根拠が「常識」や「みんな」といった論理とは対極の位置に存在するものであったりする。
もしくは文章自体を読めてないケースも珍しくない。
こういった思考の浅さと、その自覚のなさが、どうにも癇に障って仕方ないのだ。