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他人を不快にさせる発言ほど価値がある

何言ってんだコイツ?

タイトルを見てそう思った人も多いだろう。

もちろん低劣な罵倒にはなんの価値もないし、他人を不快にさせる発言を無条件に称賛するわけではない。

この記事で言いたいのは

一定の条件を満たす限りにおいて、他人を不快にさせる発言には大きな価値がある

ということである。

さて一定の条件とはなんだろうか?

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他人を不快にさせる発言が価値のあるものになる条件

他人を不快にさせる発言が価値あるものになる条件は、

それが肯定的な意味の「パレーシア」であることだ。

パレーシアとは紀元前5世紀~後5世紀あたりまでギリシアで使われていた言葉であり、

「率直に語る」

「真理を語る」

という意味がある。

基本的には“徳”とされ、肯定的な文脈で使われるケースが多い。

(ただし後半で述べるが否定的な文脈で使われるパレーシアもある)

肯定的な文脈におけるパレーシア

もちろんただ思ってることを正直に語るだけでは価値のあるパレーシアとは言えない。

肯定的な文脈で使われるパレーシアは以下の条件を満たしている必要がある。

自分を危険に晒す

パレーシアの条件として第一に挙げられるのが、

発言することによって自分を危険に晒す

ということだ。

たとえば

  • 真実を語れば相手を怒らせ、結果として命を奪われるかもしれない
  • 真実を語れば相手を傷つけ、結果として批難や罰を受けるかもしれない

などといったリスクが存在することがパレーシアにとって不可欠の条件である。

すなわち人を不快にさせる危険を伴わない言動はパレーシアとは言えない。

パレーシアは常に「批判」の形をとり、我が身を危険に晒す行為となる。

聞き手よりも低い地位にある

パレーシアを行使する者は

聞き手よりも低い地位

でなければならない。

たとえば教師が生徒に対して正直に語ることはパレーシアとはいえない。

一方で哲学者が王を批判することや、一市民がポリスの大多数の人々を批判することはパレーシアにあたる。

つまり「弱者→強者」という形でなければパレーシアではないのだ。

全体主義が幅を利かせる現在の日本では「多数派」が強者にあたるといっていいだろう。

すなわち多数派に属する者が少数派に対して正直に語るのはパレーシアとは言えず、

少数派に属する者が多数派に対して正直に語ることが現代におけるパレーシアの条件となる。

なぜパレーシアは価値があるのか

なぜパレーシアには価値があるのか?

ひとつは権力者の暴走を止める重要な役割を果たすから。

もうひとつはパレーシアを行使するには多大なる勇気が必要だからである。

ここまで説明したように、パレーシアはリスクを冒しながらも真理(だと自分が思ってる内容)を語ることである。

相手を不快にさせる可能性があると認識し、その結果自分の身を危うくすると分かっていながら、それでもなお真理を語ろうとする。

これには揺るぎない信念と覚悟が必要であり、だからこそ安全圏から発せられる無難な言葉よりもはるかに価値があるのだ。

20世紀に活躍したフランスの哲学者フーコーは、パレーシアを以下のように表現している。

パレーシアでは、話し手は自分の自由を行使し、説得よりも率直さを選び、偽りや沈黙よりも真理を選び、生命や安全性よりも死のリスクを選び、おべっかよりも批判を選び、自分の利益や道徳的な無関心よりも道徳的な義務を選ぶ

パレーシアステース

価値あるパレーシアを行使する者のことをパレーシアステースと呼ぶ。

パレーシアステースとしてもっとも分かりやすい例が「ソクラテス」だろう。

彼は自らの命を捨てることになってもなお最後まで真理を語ることにこだわり続けた。

我が身よりも真理を語ることを優先したのである。

ソクラテスは以下のような言葉を述べている。

大多数の人々に反対されるほうが、私というたった一人の人間が私自身と不調和であったり、矛盾したことを言うよりもよい。

ソクラテスのように私的な損得よりも真理を語ることを優先する者は現代の日本にも存在する。

無数の批判に見舞われると重々承知していながら、少数派である自らの意見を臆せず発信し続ける彼らは、現代のパレーシアステースといっていいだろう。

逆に多数派の喜ぶだろう無難なコメントばかり発信する言論者はまったく信用ならない。

つねに安全圏に身をおいて一方的に人を裁く典型的な“善人さ”には嫌悪感すら覚える。

時代は変われど人の心は変わらない

しかし多くの人間はパレーシアステースよりも、こうした善人(詭弁家)の言うことに耳を貸してしまう。

この現象については紀元前4世紀ごろに活躍した弁論家イソクラテス(≠ソクラテス)がわかりやすく述べている。

私の見るところ、諸君は発言者を分け隔てず公平に聴くことをしていない。ある者には神経を集中するが、ある者に対してはその声を聴くことすら我慢しない。そして諸君のそういう態度は不思議ではない。諸君はこれまで諸君の欲望におもねる者でなければ、すべて演壇から引き降ろす悪習に染まっているからである。

これと似たようなことを、1世紀後半から2世紀に活躍したディオ・クリュソストムスも述べている。

勇敢な者にとっては真理と率直さ(パレーシア)が世界で最も心に快いものであり、臆病な者にとってはへつらいと欺きこそがもっとも快いものなのである。臆病な者は出会いにおいて自分を喜ばせてくれる人間の言葉に耳を傾ける。勇敢な者は、真理を大切にする人間の言葉に耳を傾けるのである。

要するに多くの人間は自分にとって都合のいい言葉ばかりに耳を貸し、都合の悪い言葉には耳をふさぐ傾向があるという話である。

すなわち正しいかどうかよりも自分にとって都合がいいかどうかが物事の判断基準になっているのだ。

これは損得よりも真理を優先するソクラテスとは真逆の姿勢と言っていいだろう。

また、彼らは自らの意にそぐわぬ発言をする者を徹底的に排斥しようとする。

そしてそれを利用したソフィスト(詭弁家)がますます幅を利かせるようになる。

この構造はまさに現代の日本とまったく同じだ。

いつの時代もどの国の人間も多数派の本質部分はそう変わらないのかもしれない。

悪いパレーシア

パレーシアは悪い文脈で使われることもある。

この場合のパレーシアは

「思ったことを考えなしにすぐ口にする」

「おしゃべり」

という意味を持つ。

こうした悪いパレーシアはギリシア語でカマテイ・パレーシアとも表現されている。

カマテイとは教養や智恵が欠けるという意味だ。

つまり良い意味のパレーシアを行使するには、ある程度の知識やそれを活用する智恵が必要とされる。

それらを持たぬ者が発する正直な発言は「破廉恥な放言」に過ぎない。

某ニュースサイトのコメント欄などで目にする書き込みのほとんどは「カマテイ・パレーシア(=破廉恥な放言)」といっていいだろう。

単なる放言との違い

このようにパレーシアには“良いパレーシア”と“悪いパレーシア”があり、前者は価値があるが、後者は無価値である。

前者を行使する人をパレーシアステースと呼び、後者を行使する人を恥知らずと呼ぶ。

さて両者を見分ける方法はあるのだろうか?

以下3つの基準に照らし合わせてみれば判別はそう難しくない。

危険を冒しているか

ひとつめの基準は先に述べたように、自分の身に不利益があるかどうかである。

「どう考えても叩かれるのになぜこんな言動をするんだろう?」

「どうして彼は多数派とまったく逆の主張をするんだろう?」

と思われるような人は、損得よりも真実を話すことに価値をおいてる人間の可能性が高い。

たいてい彼らは世間からの否定的な反応や攻撃をあらかじめ予測できている。

非難されるのを承知で発言しているということは、その内容が正しいにせよ間違ってるにせよ、少なくともその姿勢には誠実さと勇敢さが認められるだろう。

(単に想像力が足りてないだけのパターンもあるが)

基盤となる知識や思考力があるか

良い意味のパレーシアを行使するには最低限の知識と思考力が必須である。

これがないものは単なる放言でしかない。

最低限の知識があるかどうかは、読書量や使用する語彙などがひとつの目安になる。

思考力があるかどうかは、疑う力や抽象化能力からある程度推し量れるだろう。

とくに重要なのは後者の能力であり、たとえ博識でも思考センスが絶望的に欠けている人間は決してパレーシアステースになり得ない。

発言と行動が一致してるか

発言と行動が一致してるかどうかもパレーシアステースを見分ける上で重要である。

わかりやすい例で言えば

「イジメは許せない」

「誹謗中傷は最低だ」

なんて主張する一方で、小室圭さんへの集団リンチに参加している人たちは言行不一致の典型だ。

こうした自己矛盾した行動を平気でやってのける人間の言葉には、なんの説得力もないし信用に値しない。

誠実であることの価値

以上のように、真実(だと自分が思ってること)を語ろうと思えば、どうしても多くの人を不快にさせるものである。

不快になる人が多いと予測される主張ほど、同じ考えを持つ人間はそれを外に出しづらいワケだから、その発言は価値のあるものになる。

誰も不快にさせない発言など、言論人としては何も言ってないに等しい。

歴史を遡ったり、時代を超えて残っている古典を読んでみても、真に価値のある発言はたいてい多くの人間に受け入れられない(=不快にさせる)ものだ。

偉大な哲学者や文豪が「誠実さ」を至高の美徳として語ることが多いのは、彼らはいつも少数派であり、誠実に語ることが自分の身を危険に晒すことに直結するからだろう。

聡明な人間がその考えを誠実に語ることが危険であるのは、昨今のSNSを見ても一目瞭然である。

僕の尊敬する人間に共通するもの

僕には尊敬する哲学者や表現者が数名いるが、やはり例外なく人を不快にさせる言動をしている。

もちろん彼らは人を不快にさせることを目的にしてるわけではなく、自らの考えを誠実に語った結果、理解力の欠如した人たちから反感を買ってるだけである。

彼らが尊敬に値する理由とはなんだろうか?

ひとつは主張の支えとなる自分の頭で考え抜いた論理の基盤があるから。

そしてもうひとつはパレーシアの精神を持っているからだ。

多くの人間から反感を買い、非難を受けるリスクを引き受けた上で、それでもなお真実だと思う考えを語ることに価値をおく。

彼らの口から発せられる血の通った言葉は、多数派という安全地帯から無責任に発せられる放言とは重みがまったく違うのである。

逆に自分が誰かを不快にしてるとは微塵も思っていない善人の言葉ほど軽いものはない。