- 他人よりできないから辛い
- 他人より劣っているから辛い
こうした悩みはよく目にし、ネット上でも多くの解決策や共感の声が上がっている。
他人よりできないがゆえに苦しさを感じるのは自然なことだろう。
しかしその一方で、
- 他人よりできるから辛い
- 他人より優秀だから辛い
こうした悩みを目にすることは少なく、ネット上でも解決策や共感の声がほとんどない。
では他人より優れていることが原因で苦しんでる人は存在しないのだろうか?
いやそうではないだろう。
「優秀だから辛い」という人はその特性上声を上げられないのである。
(※この記事では便宜上「優秀」「できる側」という言葉を多用するが、「一般的な価値観では良しとされている特性」というニュアンスで使用している。逆も然り。)
「優秀だから辛い」と言えば99%反感を買う
「優秀だから辛い」という類の発信とは対称的に、
多くの共感を得られるのが「劣ってるから辛い」という類の発信である。
たとえば
- 彼女ができない
- 自分の顔に自信が持てない
- 金がない
などといった“できない系の悩み”は一般的にウケがいい。
普通レベルもしくはそれ以上の人からすれば優越感を抱けるし、できない人からすれば共感が持てるからだ。
発信側にユーモアのセンスがあれば笑いにもつながるだろう。
SNSでウケる文章や称賛されるコンテンツには、自虐要素が詰まったものも多く、そうしたものは批判的コメントがほとんどない。
一方で勉強できるがゆえの悩みだとか、美人であるがゆえの悩みといったものは非常にウケが悪い。
仮にそれが事実であり、本人にとっては深刻な悩みであったとしても
- イケメンだから内面を見てもらえないことが辛いんだ
- 頭が良すぎるから話についてこれる人がいなくて辛いんだ
- 金持ちだから嫉妬されて辛いんだ
などと言えば、周囲からはイヤミや自慢のように聞こえ、反感を抱かれることは必至である。
あるいは贅沢な悩みだと一蹴されるだろう。
上記の例のようにストレートに言う人はまずいないだろうが、
たとえどれほどオブラートに包んだ言い方に変えたとしても返ってくる反応はほぼ変わらない。
以上をまとめると次のようになる。
- 一般的に“恵まれていない”とみなされる悩みは、ある程度の理解や共感を得られることが多い
- 一般的に“恵まれている”とみなされる悩みは、イヤミや自慢と捉えられ、悩んでることにすら反感を抱かれる
つまりここに“できる側”の辛さがある。
「優秀だから辛い」という思いは、たとえ言い方を変えようとも決して口にしてはならないのだ。
すなわち、ある基準に対して普通やそれ以下に属する人は思ってることを正直に発信できるのに対し、
“できる側”に属する人間は思ってることを正直には発信できないのである。
またその態度も厳しくチェックされ、ちょっとでも優れていることを自覚しているような仕草を見せようものなら、
「アイツは自惚れている」
「ちょっとできると思って鼻にかけやがって」
「恵まれてる人間は苦労がなくていいよねぇ」
などといった攻撃が四方八方から飛んでくる。
もちろん普通の人や“できない側”の人間であっても、思ったことすべてを口にするわけではないだろうし、心の中にしまっておくこともあるだろう。
だがその回数に大きな差があるのだ。
ゆえにできる側の人間は思ったことの多くを口にできなくなり、必然的に他者から孤立していく。
ある程度の器用さを持っていれば、表面上は上手く世を渡っていけるかもしれないが、それでも心の底では大きな孤独を抱えるだろう。
優秀だから辛い哲学者
優秀であることが孤独につながる例として「哲学者」がいる。
僕は哲学者の書いた本を読むのが好きなのだが、哲学者には2種類存在すると思っている。
先天的哲学者と、後天的哲学者だ。
前者が生まれつき哲学的思考を持っているのに対し、後者は知識として哲学的思考を学んでいる。
ともに聡明であることには違いないが、型にはまらない本質的な思考センスを持っているのは前者だ。
前者はまさに今回の記事で述べた“できる側”にあたる。
そして先天的哲学者は必ずと言っていいほど、人生において(とくに少年~青年期に)周囲から“変人扱い”を受けている。
もしくは表面的には一見上手くやっていても、内面のちょっと深い部分では誰からも理解されることなく、孤独な時期を経験していることが多い。
変人といっても2種類存在し
- 考えが足りなすぎて奇行に走る変人
- 考えが深すぎて常人の目からは奇行に映ってしまう変人
がいる。
先天的哲学者の多くは後者の変人だ。
だが前者の変人だろうが後者の変人だろうが、常人にとっては“奇怪な言動をする変人”という同じカテゴリーに分けられる。
つまり先天的哲学者は優秀すぎるがゆえに理解されず、結果として孤独になってしまうのである。
知的面の優秀さに関してはそもそも客観的指標がなく、優秀な者が不当に低い評価を受けることも少なくない。
「理解できない⇒自分の知識や理解力が不足している」と解釈する人は少なく、
「理解できない⇒相手がアホなことを言ってる」と自分に都合のいい解釈をする人が多いからだ。
逆転現象
これと似たような現象は昨今のSNSやネット掲示板でも頻繁に起こっている。
10手先まで考えて大局的な最善手を発信している知識人を、局所的な目先の1手しか見えていない人間がこぞって非難する……という光景がネットでは日常茶飯事なのだ。
そして残念なことにネットではむしろ後者のほうが多数派であり、多数派であるがゆえ彼らは自らの主張に疑問の目を向けることがない。
それどころか10手先まで読んでる知識人を見下すような発言すらしてしまう。
これはまさに“できる側”の人間が不当な評価を受けている例である。
スポーツ等の他分野ではこのような逆転現象はあまり見られないが、“知”に関する分野においてはむしろ逆転現象が起こってないことのほうが珍しいと言ってもいいだろう。
優秀で辛いというのは贅沢な悩み?
正直なところ、いくら“優秀だから辛い”となる理屈を語ったところで、
「それは贅沢な悩みだ」
と思う人は多いと思っている。
という記事でも書いたように、人は経験したことがないものを理解するのは難しいからだ。
ボクは“普通よりできること”も“普通よりできないこと”も両極端で経験しているため、一応どちらの気持ちもある程度はわかるつもりだ。
それでもなお
- できることに関しては傲慢になり、できない側の気持ちに鈍感になってる
- できないことに関しては卑屈になり、できる側の気持ちに鈍感になってる
と自覚することがたびたびある。
たとえば過去に自分が書いた記事を見返すと、ときには傲慢さが鼻につき、ときには卑屈さがうっとうしくなる。
両方を経験してるはずの自分でも鈍感になっている現実を考えると、やはり“できない側”と“できる側”が理解し合うというのは無理があるのかもしれない。
という記事でも述べたように、人はなにかを出来るようになるほど出来ないときの感受性を失っていく。
逆を言えば、できない人にはできる人の感受性を理解するのが難しい。
それらが悪いと言いたいワケではなく、物事には必ずそういう側面があることを頭の片隅に置いておきたいということだ。
すなわち自らの感受性を疑う姿勢をある程度保っていれば、完全に鈍感さを消滅させるまではいかなくとも、多少はその進行を食い止められる。
逆に自らを常に絶対的な善の側に置き、その感受性に何の疑問も抱かなくなると、その瞬間からウイルスのように体中が鈍感さに蝕まれるようになる。
要するに常にあらゆる方向から物事を考えるようにしていないと、あっという間に偏った思考に陥ってしまうのだ。
優秀であることの苦しみは他の苦しみとは比較できない
少し話がずれてしまった気もするが、今回の記事で言いたいのは
“できる側”にも特有の辛さがある
という話である。
そしてこの辛さは厄介なことに、他者に共感を求めても理解されないどころか反感を抱かれる確率が極めて高い。
したがって自分ひとりで抱え込むしかない。
ここに二重の苦しみが存在する。
もちろんこれは“できる側”が“できない側”よりも辛いという話ではなく、
できる側にも違った種類の苦しみが存在するという話である。
両者は辛さの質が違うため、
「学校でいじめられるのと家で虐待されるのとどっちが辛いか?」
という問いのように、単純にどちらが辛いか比較することはできない。
とんがりコーンと雪見だいふくのどちらが美味いかを比較できないように、
ジャンルの異なるもの同士に順位はつけられないのである。
ただし、できる側にしろできない側にしろ、
程度が過ぎるほど理解者が減り、孤独感に苛まれやすい
という点では共通しているだろう。
孤独感の癒やし方については長くなるので、気が向いたら別の記事で語ろうと思う。