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不倫なんて当たり前じゃん。にんげんだもの

小学生の頃から不倫問題で芸能人が叩かれているのを見るたびに思う。

人間なんだから不倫するのは当たり前なのにどうしてここまで世の人は騒いでいるのだろう、と。

そもそも「不倫」を「不倫」と呼ぶこと自体に昔から違和感がある。

というのも、不倫とはもともとは文字通り「道徳に反すること」を意味する言葉だ。

それがいつからか「配偶者ではない人間との男女関係」を指す言葉になった。

パートナー以外の異性と関係を持つことがそこまで騒ぐほど反道徳的なのか?

浮気された人間やその家族が傷つくのは分かる。

彼らが怒るのは心情的に仕方ないだろう。

広告費を出しているスポンサーや事務所関係者も怒るかもしれない。まあ分かる。

だがまったく利害関係のない野次馬共が袋たたきにするほどの罪なのだろうか?

むしろこの正義ヅラした野次馬たちこそ人としての道を外れているように思えてならない。

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そもそも結婚が不自然

そもそも結婚という行為自体がボクには極めて不自然に見える。

生涯ひとりの異性だけを愛し続けるというのはどう考えても生物学的に不自然だ。

仮にあなたが30歳の男だとしよう。

日本には現在約1億2500万の人間がいる。

(ここでは便宜的に)その半分が女性とすると、約6250万人の女性がいることになる。

30年間生きてきた中で果たしてこの何パーセントの女性と出会っただろうか?

たいていは0.001%にも満たないだろう。

日本だけで見ても、まだ出会ったことのない女性が今までに出会った女性の何十万倍もいるわけだ。

理屈で考えれば今までに出会った数百人のうちの1人よりも、まだ出会っていない数千万人の中にもっと好みの女性が存在する確率のほうがはるかに高い。

にもかかわらず、前者の中から選んだ女性をこの先も一生愛すると約束するのは無理があるだろう。

極端な話をすれば、結婚式での神父の問いかけに対して

「誓います」

と答えるのは、守れるかどうかわからない約束を平気で口にしてしまういい加減な男であり、

「これまでの経験からすると今後好きじゃなくなる可能性もあります」

と答えるのが真に誠実な男である。

まあ結婚式場でそんな発言をするような男はそもそも結婚できないと思うが……

人間なら不倫したくなるのは当たり前だ

もう一つ例を出してみよう。

あなたは初恋の人を今でも一番好きだろうか?

たいていの人はNOと答えるはずだ。

初恋でなくとも

「この人が運命の人だ」

「この人とずっと一緒にいたい」

という気持ちは多くの人が経験しているだろう。

そしてその気持ちが消え去る経験もまた多くの人がしているのではないだろうか?

それも一度だけでなく何度も繰り返し経験しているのではないだろうか?

ごく稀な例外を除いて、たいていの人は大人になるまでに何度も別の異性に恋しているはずだ。

そうであるならば帰納法的な推論によって、結婚相手に対しても同様にいずれ気持ちが冷めるだろうと予測するのが自然である。

逆にこれまで必ず起こっていた現象がある日を境に突然起こらなくなるというのは理屈的に不自然だ。

ギャンブラーの誤謬に負けず劣らずの希望的観測と言えよう。

一夫一妻制は当たり前ではない

現在の日本では一夫一妻制は常識とされているが、海外では一夫多妻制の民族も決して少なくない。

また日本でも明治時代初期までは一夫多妻制が当たり前だった。

そしてそれはレヴィ・ストロースも言うように、彼らの生活が野蛮で未熟なものであるからではない。

あるいは生物学的な観点からしても、やはり一夫一妻制は異常である。

現に一夫一妻型の哺乳類は全体の3%ほどしかいないと言われている。

人間も本来は自由に男女が交わる生き物であり、結婚という制度自体がそもそも人間の本能に反した不自然なものなのだ。

結婚はエゴである

不倫はエゴであり、人を傷つける。

これは否定できない。

だが結婚もまたエゴであり、人を傷つける。

華やかな祝福の裏では、人知れず涙を飲んでいる人間も決して少なくないだろう。

結婚した人間が魅力的な人間であるほどその数は多くなる。

単純に数の話でいえば、不倫よりも結婚によって傷つく人のほうがむしろ多いかもしれない。

よく考えてみてほしい。

1人の人間をたった1人で一生独占する。

これ以上のエゴがほかにあるだろうか?

ましてや多くの人が好意を持つ芸能人を1人で独占するなんてとんでもないエゴである。

これがほかの分野だったら間違いなく“ジコチュー”の烙印を押されるに違いない。

たとえばスーパーの食べ物をすべてひとりで買い占めたり、新発売のiPhoneをひとりで独占したりしている人間がいたら誰もが批難するだろう。

ディズニーランドをひとりで50年間貸し切りにするような奴がいたら多くの人はそれを許さない。

これが人間の場合だけ許されるというのは、一度固定観念をとっぱらって考えれば奇妙な話だ。

勘違いされないように言っておくと、ボクはエゴそのものを悪いものだと思っていないし、結婚している人間を批難しているワケでもない。

『その思いやりって自分のためだよね?【にょろマガ第4号】』

で述べたように、ボクも含めて人間は本来エゴな生き物であり、一見利他的に見える言動のなかにも巧妙に隠された利己心があることは多い。

ボクが一貫して批判しているのは、自らのうちにあるエゴに無自覚な一方で他人のエゴを声高に批難する人間である。

“健全な結婚生活”が成立する条件

以上の話を踏まえると、多くの人がイメージしている“健全な結婚生活”が成立している夫婦は実際にはそう多くないんじゃないかと思っている。

結婚生活を続けられている夫婦は以下の6パターンに当てはまる場合が少なくないのではないだろうか?

  1. 日常生活において異性との出会いが少ない
  2. あまりモテないので新たな関係に期待していない
  3. 片方あるいは双方の自己欺瞞の上に成り立っている
  4. 性欲が弱い、もしくは異性への興味があまりない
  5. 恋愛感情はないが家族としての愛情はある
  6. 気持ちは冷めているが、経済面や子供のことを考えると離婚できない

人間関係の変化が少ない一般人なら【1】や【2】によって“健全な結婚生活”が成立する可能性は十分あり得るかもしれない。

だが俳優ともなれば【1】や【2】はまずありえないだろう。

しかもそんじょそこらにはいない美男美女と当たり前のように触れ合うのが日常だ。

たとえばあなたの好みのタイプの有名人たちが、次から次へとあなたを誘惑してくる日常を想像してみてほしい。

耐えられるだろうか?

少なくともボクには無理だ。

宮崎あおい→新垣結衣→広末涼子→吉岡里帆……

なんて感じで美女たちに日替わりで誘惑されたら100%不倫するだろう。

パートナー以外の異性に一切相手にされないヤフコメ民やガルちゃん民が不倫をしないのと、毎日のように美男美女と交わりのある芸能人が不倫をしないのとでは難易度がまったく別次元なのだ。

むしろ不倫していないほうが不自然にさえ思える。

繰り返しになるが、ボクは結婚そのものを悪く言ったりすでに結婚している夫婦を悪く言いたいワケではない。

結婚する人にもいろんな事情があるだろうし、僕の知らないメリットもたくさんあるだろう。

ただ人間の本能には合わない不自然な制度であるため、そのルールを破ってしまうのも人間心理的には仕方ないところがあるという話だ。

つまり不倫ひとつで人格まで否定する今の風潮はおかしいんじゃないか?というのがこの記事でもっとも主張したいことである。

「子供が傷つくのがわからないのか?」

不倫関連の報道に対するコメントでもっとも不快に感じるのが

「子供がかわいそう」

「子供が傷つくのがわからないのか?」

といった類の発言である。

これらの一見すると真っ当にも思える発言がどうして不快なのか?

理由は以下の3つである。

会ったこともない子供の気持ちがなんで分かるの?

親が不倫したら子供が傷つく。

これを自明であるかのように認識しているのがそもそも間違いだ。

少なくともボクは親が不倫しようがなんとも思わないし、親だって人間なんだから恋愛ぐらいするだろうと思うだけの話である。

そんな子供はほかにも山ほどいるだろう。

「不倫のない家庭こそ健全である」

という個人的な“理想の家族像”が誰にとっても普遍的な理想であり、誰もがそうあるべきだという傲慢な思想がにじみ出ているのである。

これは“常識真理教”の信者によく見られる悪いクセだ。

少なくとも僕の親が不倫によってバッシングされていたら、不倫した親ではなく、カワイソウだなんだと抜かしながら平気で他人の親に罵詈雑言を浴びせてる連中こそ不快である。

自らの主張を正当化するために弱者を持ち出す卑劣さ

最近はなにかを主張するときに、子供やマイノリティな集団といった“弱者”の代弁者であるかのように語る人間が多くなった。

彼らは問題点をきちんと理屈立てて批判するのではなく、

「おまえは弱者に対してこんな酷いことをしているんだぞ!」

というふうに“弱者への思いやりのない非道な人間”として人格を攻撃するのだ。

この傾向はTwitterなどで不毛な言い争いをしている匿名の暇人だけでなく、ジャーナリストや活動家にもよく見られる。

あるいは一部野党もよく使う手段だ。

そしてこの手の発言は極めて卑劣で薄汚いものにボクには思える。

というのも、彼らは本当に弱者のためを思って発言をしているのではなく、自分の主張を正当化するための道具として弱者を利用しているからだ。

たとえばジャーナリストや活動家にはハナから答えありきで現地取材をしているパターンがよくある。

自分の求める答えを言ってくれそうな人物を選んで取材をし、

「見てください、これが弱者のリアルな声ですよ!」

という具合に、自分の主張をもっともらしく見せるための“エビデンス”として弱者の声を利用しているのだ。

その際、自分にとって都合の悪い弱者の声は決して表には出さない(チェリーピッキング)。

ひどい場合には「コイツは敵の味方だ」「悪い奴らに洗脳されているんだ」とレッテルを貼り、攻撃対象として晒し上げることも珍しくない。

取材歴〇〇年のジャーナリストという肩書きに簡単に騙される人間は多いが、むしろそういった人物の発言こそ疑ってかかったほうがいいだろう。

話が少しそれたが、要は自分の主張を通すために弱者を持ち出し、そのうえ自分を弱者に理解のある人物であるかのように見せるその卑劣な精神が不快なのである。

統一教会騒動で弱者の代弁者であるかのように持て囃されていた一部の人間はそのいい例だ。

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自らの言動が子供を傷つけているとは思わないのか?

「自分は本当に子供が気の毒に思えたからかわいそうだとコメントしたのであって、道具として子供を持ち出したわけではない」

そんな反論もあるかも知れない。

もしかしたらそうなのかもしれないが、そうだとすれば相当おめでたい頭をしている。

というのも、彼らは不特定多数の人間から親を批難される子供の気持ちをまったく想像していないからだ。

本当に子供のことを思っているのなら、見ず知らずの人間から親が罵詈雑言を浴びせられ続けている状況が子供の目にどう映るかも当然考えるだろう。

たとえば広末涼子の不倫を叩くコメントは、彼女の子供からすれば

「おまえの親は最低の人間だ」

「おまえの親は親失格だ」

と言われているのと同じである。

こういったコメントが親だけでなく子供も傷つけることぐらい小学生でも分かる話だ。

関連記事 ゆたぼんをイジメる大人たちの悪質さ

同情するふりをしながら子供の心に平気でナイフをつき刺し、それでいて一片の罪悪感すら抱いていない。

このように自分の加害性に鈍感でありながら妙な正義感を持つ連中ほどタチの悪いものはない。