先日ヤフーニュースに気になる記事があった。
ヤフーニュースといえばコメント欄のレベルがあまりに低いので普段は見ないようにしてる。
ただコメントランキング1位の話題がちょっと興味をそそるものだったので、怖いもの見たさで開いてみることに……
内容は
『人気Youtuberヒカルの食べ方が汚すぎて非難殺到』
という実にくだらないものだ。
ヒカルという方の名前と顔は知ってるが、正直そんなに詳しいワケではない。
気になるのはコメント欄のほうである。
コメント欄にある内容を少しだけ抜粋してみよう。
・親のしつけがなってない
・育ちの悪さが分かる
・食べ方のマナーがなってない人はそれだけで軽蔑する
・どんな育て方したらこんな下品な食べ方になるんだろう
・いい年して恥ずかしい
・箸の持ち方がおかしい人はみっともない
さすがヤフコメといった感じのコメントがズラッと並ぶ。
相変わらず無駄に生真面目で心が狭く、自分を棚に上げたセリフのオンパレードだ。
そして文章の一つ一つからにじみ出ている加齢臭がやはり鼻について仕方ない。
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マナー本来の目的
あらかじめ言っておくと、僕はいわゆる食べ方が汚い人ではない。
親が常識人でそこそこマナーにうるさいタイプなので、箸の持ち方などに関しては割と”ふつう”だ。
しかし世の中の食事マナーへのこだわりは合理性を欠いた異常なものだと思っている。
食事マナーに限らず、常識やマナーを絶対視する人間は手段を目的化してしまうタイプの人間が多い。
ましてや食べ方が汚いだけでその人の人格や家庭環境まで否定するような人間は、あまりに論理飛躍が過ぎるのではないだろうか。
例のごとく、ヤフコメ民たちはまた目的と手段を履き違えているようだ。
本来マナーの目的とは何か?
マナーとは誰のためにあるのか?
ということを考えれば、彼らの発言がいかに馬鹿馬鹿しいか分かる。
マナーとはつまるところ相手への思いやりのために存在する。
他人への思いやりの手段として生まれたのがマナーだったはずなのに、マナーを守らないから他人を攻撃するというのはあまりにも馬鹿げている。
いつしかマナーを守ること自体が目的となり、本来の目的だった思いやりが姿を消している。
本来の”思いやり”という目的を考えれば、
テーブルマナーを知らない人間を「シツケがなってない」と非難したり嘲笑する人よりも、
何も気にせず楽しく食事できる人のほうがよほど思いやりがあり、マナーのある人間と言えよう。
食べ方が汚い人への不快感
食べ方が汚いというのが「咀嚼音(そしゃくおん)がクチャクチャうるさい」という内容なら批判するのも分からなくない。
他人の咀嚼音が気持ち悪いのは本能的な不快感によるものであり、おそらく万国共通の生理現象だ。
ただ彼らが口にしてるのは
- 肘をついて食べる
- 箸の持ち方がおかしい
といった”誰かが勝手に決めた後付けの常識”を守っていない事に対する不快感だ。
これらの行為には批判するほどの合理的な理由がない。
とくに箸の持ち方なんて、日本を出れば通用しないローカル文化のひとつに過ぎない。
たとえば外国人が間違った箸の持ち方をしていても不快に思う人は少ないだろう。
すなわち生理的な不快感とは全く別物であり、同じ行為でも相手によって反応が変わるダブルスタンダード性も持っている。
誰かの気まぐれで誕生した無意味なルールを”絶対に守らなければならない掟”と勘違いしてるだけだ。
マナーには意味があって存在するものと、ほとんど意味のない形だけのものがある。
後者を他人に強要し、それを守らない人間を攻撃するというのは完全にマナー本来の目的(=思いやり)を見失っている。
自家撞着
食事マナーについて口うるさく非難する人も、別の分野では知らないマナー、あるいはくだらないと感じるマナーがきっとあるだろう。
もっと言えば食事マナーにしたって完璧に知ってる人は少ないのではないか?
「私の知らないマナーは守らなくていいけど食事マナーだけは絶対守るべき」
「私が守ってないテーブルマナーは守らなくていいけど、私が守ってるテーブルマナーは守るべき」
というのはあまりに自分に都合のよすぎるルールなんじゃないだろうか?
少なくともそこに他者への思いやりや寛容さは全くない。自分本位そのものだ。
マナーなんて調べれば数えきれないほど存在するため、自分もどこかで必ずマナー違反の行動をしている。
あなたがそうしたマナーを知らない状況で、相手から
「これは常識として知っておくべきだ!」
「こんなマナーも知らない人間は恥ずかしい」
と馬鹿げた価値観を押し付けられ、あげくには人格否定、親のしつけにまで口を出してくる人間がいたらどう感じるだろうか?
世の中には自分の知らないことが山ほどあることを理解していれば、マナー1つ知らないくらいで他人を裁くことがいかに高慢で視野の狭い行為であるか分かるはずだ。
他人のマナーに不寛容な人間は結局どこかで自家撞着に陥る。
「マナーには守るべき理由があるんだ」
「肘をついて食べると皿を落とすし、箸の持ち方が違うと食べものをこぼすんだ!」
などといった詭弁を並べる者もいる。
彼らは肘をついて食べてる人間が皿を落とすシーンをどれだけ見たのだろうか?
変な箸の持ち方をしてる人が食べ物を落とすところを何回目撃したのだろうか?
たいていはどこかで見聞きした実体験の伴わない偏見、あるいは身近な数人を見ただけで全てがそうであると決めつける短絡的な判断によるものだろう。
それに肘をついてなかろうが皿を落とすことはあるし、正しい箸の持ち方でも食べ物を落とすことはある。
少なくとも人格否定につなげるほどの合理的理由はそこに存在しない。
「マナーを知らないと本人が恥をかくんだよ」
「本人が恥をかくから彼のためを思って言ってるんだよ」
余計なお世話である。
一体誰に対して恥をかくのか?
食べ方のマナーなんてつまらないことをヒステリックに気にする人間からどう思われようが、彼からしたら恥でも何でもないだろう。
本来のマナーの目的を考えず、マナー違反を理由に人を裁いている人間の方がよほど恥ずかしい。
たかが箸の使い方ひとつで不快に思う人は、他人のマナーよりも自分の狭量さを恥じたほうがいいんじゃないだろうか。
こんな些細なことで不快感をあらわにする人間に、本来のマナーの目的である”思いやり”などこれっぽっちも感じない。
本来恥ずべきはマナーを知らない人間ではない。
マナー1つで人格を否定したり、他人の親のしつけを平気で否定できる人間である。
「食べ方が汚い人は育ちが悪い」
「食べ方が汚い人は育ちが悪い」
”育ちが悪い”という言葉ほど発言者の品性が疑われるセリフはなかなかない。
よく知りもしない他人の生まれ育った環境や親のしつけを貶すなど下品以外の何物でもないだろう。
仮に親のしつけが悪かったとしても、それは本人にはどうしようもできないことであり、そこを貶すのは相当な性格の悪さを感じさせる。
そもそも余所の家庭のしつけをとやかく言う行為自体が余計なお世話であり品がない。
「マナーが悪いと親が悪く言われるんだよ?」
「あなたのマナーが悪いとあなたを育てた親が批判されてることになるんだよ?」
これも卑怯極まりないセリフだ。
この発言者の根底にあるのは相手への思いやりでも相手の親への思いやりでもない。
自分が不快だからやめて欲しいだけのことを、あたかも”相手への思いやり”であるかのように正当化しているところに狡さがある。
「相手を不快にさせてる時点でマナー違反だ」
「箸の持ち方が悪いと相手を不快にさせるんだからそれはマナー違反だよ」
こうした『誰かを不快にさせる=マナー違反』という論を述べる人もいるかもしれない。
こうした人に共通しているのは自己批判精神の欠如である。
すなわち
「たかだが箸の持ち方で不快感をあらわにしてるあなたが不快だ。あなたの理屈で言えばあなたも他人を不快にさせてるんだからマナー違反になる」
という多少でも自己批判精神を持っていればすぐに思い浮かぶ反論に気づかない。
彼らは自分が誰かを不快にさせてる可能性は1ミリたりとも考えないのだ。
「言われたくないなら直せばいい」
「指摘されるのが嫌なら箸の持ち方ぐらい直せばいい」
こういうことを言う人間もいる。
だが箸の持ち方を指摘されるのが嫌なわけではなく、たかが箸の持ち方ひとつで人格や親の育て方までケチをつける、その馬鹿げた思考が気に食わないのだ。
意味のない常識を妄信し、信仰に背く人間に対しては論理的根拠もなく攻撃する、そのカルト信者に通ずる思考回路が気持ち悪いのである。
そもそも「直せばいい」という言葉にも傲慢が隠れている。
箸の持ち方そのもので実害が発生するならともかく、常識に反するから不快だという理由だけで
「少数派はつべこべ言わず多数派に合わせるべきだ」
というのは傲慢以外の何物でもない。
マジョリティの傲慢と卑劣さ
ボクはここにマジョリティ(多数派)の傲慢さと鈍感さが存在すると思ってる。
この話題に限らないが、多数派に属している人間は常に周りの意見と自分の意見が一致するため、自分たちの意見(=常識)の正しさに何の疑いも持たない。
あくまでも常識が”善”であり、常識から外れる考えは”悪”であると信じている。
仮に自分たちの考えに相反する意見が現れれば、論理ではなく空気で相手の意見を封殺しようとする。
彼らは自分たちが多数派であるという絶対的有利を利用し、
「これだけみんなが反対の意見を言ってるんだからお前は間違ってるんだ」
「みんなが知ってる常識を守れないなんてお前はみっともない人間だ」
というように”空気”で相手を責め立てる。
”みんな”という卑怯な武器を使って「お前はおかしい」と非難する。
自分たちには常識やみんなという後ろ盾がある。
だから安全な場所から好きなだけ相手を非難することができる。
まわりの人もそれに同調し、共感し、賞賛してくれる。
同調する人のほうが多数派なのだからますます彼らは自分の正当さを疑わない。
彼らの意見の多くは
「みんなが言ってるから」
「常識だから」
というのが論拠であり、そこには合理的な理由も自らの頭で考えた論理も存在しない。
だがそうした人間の方が世間での受けはいい。
何も疑わず多数派に同調する人間のほうが、たとえどれだけ思考停止だろうと平和な日常を送れる。
どれだけ少数派の存在を無視しようが、どれだけ少数派の人間の心を踏みにじっていようが、世間では”思いやりやマナーのある優しい人”という評価を得られる。
食べ方が汚い人への不快感に合理的な理由はない
まとめると食べ方が汚い人への不快感にはほとんど合理的根拠がない。
なぜ不快に感じるかといえば、
常識への盲目的な信仰心があるから。
論理ではなく空気で物事を判断する習慣がこびりついてるから。
親の教えを絶対だと勘違いしてるから。
彼らが箸の持ち方を直せと言う理由は、
”みんな”と違う持ち方で恥ずかしいから。
”みんな”にみっともないと思われるから。
”みんな”に親のしつけがなってないと思われるから。
いい年して”みんな”を論拠に持ってくる大人のほうが恥ずかしいんじゃないだろうか?
他人の親のしつけを否定する方がよほどマナー違反ではないのだろうか?
箸の持ち方ひとつ自由にできない世の中のどこに多様性や思いやりがあるのだろうか?
仮に正しい箸の持ち方のほうが効率的だとしても、わざわざ他人が口を出すのはお節介。
そもそも正しい箸の持ち方なんて誰が決めたんだという話である。
”思いやり”というマナー本来の目的を忘れ、
マナーを守ること自体を目的化してしまい、形だけのマナー至上主義が蔓延る。
挙句にはマナーのために誰かを攻撃するという本末転倒な現象がいたるところで起こっている。
相変わらずヤフコメは目的と手段を履き違える人間ばかりだ。
そもそもヤフコメに常駐してるような人間がマナーを語ってる時点で「自分を棚に上げるなよ」という話だが……