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「横文字がうざい」という主張が称賛される残念な世の中【カタカナアレルギー】

世の中には『横文字アレルギー』というものを持つ人が多く存在するらしい。

イデオロギー、カタルシス、コンセンサスなどといった横文字(カタカナ語)に強い拒否反応を示すことを俗に横文字アレルギーという。

「横文字ばかり使う人は頭が悪い」

「横文字うざい」

といった主張にはネット上で多くの共感が集まっている。

正直な話、僕はそんな横文字嫌いを声高に主張する人たちのコメントを見ていると

横文字アレルギーって単に学習能力が低いだけじゃないの?

という印象を抱いてしまう。

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横文字がうざいと主張してる人も……

横文字がうざいと主張する人は

「日本語で表現できる言葉は日本語で言え」

という意見を述べることが多い。

だがそんな人たちも、桃色をピンクと呼んだり、橙色をオレンジと呼んだりしてるんじゃないか?

複製をコピーと言ったり、助言をアドバイスと言ったり、便所をトイレと言ったりしてるんじゃないか?

ストレス、モチベーション、スタイル、トラブル、リサイクル……こういった日本語でも表現できる横文字を自分だって使ってるんじゃないか?

だとしたらそれは自己矛盾以外の何物でもない。

見知らぬ言葉や新しいものを「けしからん」「わからん」と拒絶する。

これはアタマの凝り固まった頑固老人が見せる態度と全く同じものだ。

日本語の乱れ

『日本語の乱れ』という言葉にも違和感を覚える。

言葉はそもそも変わっていくのが当たり前だからだ。

たとえば数百年前の日本語と今の日本語がまったく別物なのは誰の目にも明らかだろう。

それどころかほんの100年ぐらい前の文学作品ですら、今の言葉遣いとは大きく違う。

言葉の変化なんてこれまでの歴史でずっと繰り返してきたことなのに、なぜそこまで目くじらを立てるのか不思議で仕方ない。

横文字ばかり使う人は知識をひけらかしている?

「横文字ばかり使う人は知識をひけらかしているだけだ」

といった主張をよく目にするが、ボクはそうは思わない。

たとえば横文字を使用する理由として以下のようなものが考えられる。

  1. 適切な日本語訳がないから使う
  2. 相手を対等に見てるからこそ使う
  3. バリエーションの1つとして使う
  4. ろ過装置として使う
  5. 自然に出てくるから使う
  6. 受け手側がものを知らなすぎる
  7. 受け手側の学習能力に問題がある

適切な日本語訳がないから使う

まず考えられるのが、その言葉に対応する適切な日本語訳がないということだ。

たとえば「ルサンチマン」という言葉を例に取ってみよう。

日本語でこれを精確に表現しようと思っても、なかなか一言で言い表すのは難しい。

ルサンチマンという言葉を説明する有名な例として、

  • ニーチェがキリスト教のルーツから説明したもの
  • 酸っぱいぶどうのイソップ童話から説明したもの

の2つがある。

ここでは短く説明できる“酸っぱいぶどう”の例で説明しよう。


あるところにキツネが一匹いた。

キツネは木に成っているブドウをとろうとする。

しかし手が届かず、どうやってもブドウをとることができない。

そこでキツネはこう思うことにする。

「あのブドウはすっぱいに違いない。あんなもの誰が食べてやるものか」

ブドウに価値がないと思い込むことによって、ブドウをとれない己の能力不足から目を背け、自らを正当化したのだ。

本来価値があるものを価値がないと思い込むことによって、本来価値があるものを手にできない自分を正当化させる。

あるいは弱いことや劣っていることを“善”とし、強いことや優れていることを“悪”とすることで、前者に該当する自分を正当化する。

このように本来の価値観を逆転させて無意識に自分を正当化することをルサンチマンという。

たとえば容姿に恵まれない人間が

「美人って苦労知らずだから中身がないんだよね」

と口にして自分を正当化しようとするのもルサンチマンの一種である。


ルサンチマンという言葉を説明するとこのように長くなってしまうのだが、これを日本語一つで言い表すことができるだろうか?

しいて一言で表現するなら“嫉妬”となるだろうが、それでは価値転倒によって安易に立場を逆転してることや自己欺瞞的なニュアンスが含まれることなどが精確に伝わらない。

かといってイチイチ酸っぱいぶどうの話やニーチェの話をするのも知ってる人にとっては野暮というもの。

そんなワケだから「ルサンチマン」は「ルサンチマン」と表現するのがもっとも適切なのである。

このように仮の訳語はあってもそれとは微妙にニュアンスが違う横文字は少なくない。

相手を対等に見てるからこそ使う

「横文字を使う人間は相手を見下している」

「横文字を使う人間の上から目線が気に入らない」

という意見もよく見られる。

だがこれは逆じゃないかと思う。

自分が知ってる言葉を相手も知ってる前提で話すことは相手に対するリスペクトとも取れるからだ。

仮にその言葉を知らなかったとしても、文脈から推測する能力や、分からないことを自分で調べるという最低限の学習能力を持っているだろう、という相手への信用がそこにはある。

逆に“相手を思いやった優しい伝え方”のほうが僕にはよっぽど上から目線で相手を侮った態度に見える。

実際、学生時代は優しすぎる授業内容によくイライラしたものだ。

それ以外にも相手を見下した伝え方というのは世の中のいたるところにあふれている。

たとえばマーケティング界では「客を偏差値40だと思え」「中学生でも分かるコンテンツを作れ」という教えを耳にすることが少なくない。

YoutubeやTwitterなどを見ても、ヒットしているのは“そのへん”を狙ったと思われるコンテンツばかりだ。

ワイドショーなどにおける報道姿勢も、やはり“そのへん”を意識しているのが見て取れる。

要するに、相手を偏差値40だと思ってレベルを下げて伝えるのと、相手を自分と対等だとみなしてレベルを下げずに伝えるのとどちらが相手に対して誠実かという話である。

ボクは前者の方が明らかに相手を見下していて失礼だと思うのだが、どうも世の中には見下して伝えられることをありがたがる人間が多いようだ。

バリエーションの1つとして使う

もし横文字が文章という形式のなかで使用されているのだとしたら、スパイスのひとつとして使われている可能性もある。

文章を書く上では使用する単語はバリエーションが多いほどいい。

同じような言葉ばかり連発していると文章が平坦で退屈なモノになり、無意識下で読み手を飽きさせるからだ。

またバランスのいい文章の『漢字:かな(カナ)』の比率は『3:7』ぐらいが良しとされている。

くわえて“リズム感”や“音の響き”といった要素も、心地よい文章を書くうえで欠かせない。

そうした理由から、横文字は文章をより良く見せるためのスパイスの一つにもなる。

「文章にスパイスなんて必要ねーよ」

と思う人もいるかもしれない。

だがサビ抜きの寿司を好む人間もいればサビなしでは物足りなく感じる人間もいるように、スパイスのない文章に物足りなさを感じる人間が少なからずいるのだ。

基本的には読書量の多い人ほどサビ抜きでは物足りなく感じる傾向がある。

ろ過装置として使う

発信側の人間なら分かると思うが、一般的に知名度が上がるにつれ、無数の的外れなコメントを浴びせられるようになってくる。

こうした書き込みをする人間の99%はそもそも文章をまともに読むことができない。

文脈を理解できず、単語に脊髄反射で反応し、とんちんかんなコメントをせっせと書き込むのだ。

そんな相手に有効なのが知識の乏しい人間が知らないだろう横文字を使用するという方法である。

カタカナ語は英語由来の物が多いので、中高レベルの英語が身についていたら意味が分かるワードも決して少なくない。

だが読解力の低い人間はたいてい英語も苦手としているので、彼らには意味不明な記号のように映る。

積極的に横文字を散りばめることで、彼らはアレルギーを起こし、自ずから離脱していく。

ある程度の知識、もしくは分からない単語を自分で調べる能力や、文脈から意味を推測する能力を持たない人間に対して、横文字は一種の“ろ過装置”になるのだ。

これは高級なカフェがあえて価格を高くすることでマナーの悪い客層を排除するのと似ている。

あるいは日本語でそのまま書くと反発が多いだろうと予測できる場合に、あえて認知度の低いカタカナ語を使うことで、リテラシーの高い人にだけ伝わるようにする効果もある。

自然に出てくるから使う

横文字を多用する理由として日常生活で横文字がたびたび出てくるからというのもある。

たとえばIT関係の仕事をしている場合、必然的に横文字を目にする機会が多くなる。

すると意識せずとも自分の口から自然に横文字が出てくるようになるのだ。

あるいは読書習慣がある人もそうでない人より横文字を使う傾向があるだろう。

複数の本で頻繁に出てくる横文字があれば、それはその人にとって“当たり前の言葉”になるからだ。

出現頻度の多い言葉を一般に浸透している言葉であると錯覚してしまうのは無理もない。

活字慣れしている人と活字慣れしていない人では“当たり前”だと認識しているラインにズレがある。

そしてそのラインは無意識に引き上げられるため、一般的なラインとの差異を自覚するのは難しい。

つまり知識をひけらかす意図など毛頭なく、本人にとっては当たり前の言葉を当たり前に話しているだけなのだ。

たとえば学生時代を思い出してほしい。

小学校に入学したばかりのころはほとんど言葉を知らない。

小学1年生のときに使っていた言葉と高校3年生の時に使っていた言葉では大きく異なるはずだ。

ひらがなの多かった文章も、学年が上がるにつれて漢字の比率が高くなっていく。

じゃあ高校生の自分は知識をひけらかす目的や賢さアピールのために難しい言葉や漢字を使っているのだろうか?

そうではないだろう。

新しく覚えた言葉に何度も触れているうちに、それはその人にとって自然な言葉となるのだ。

横文字を多用する人もこれと仕組みは変わらない。

地方に移住した人が自然とその地方の方言を話すようになるのと同様に、普段から横文字に触れる機会が多ければ自然と横文字が出てくるようになる。

身の回りにいる友人や家族の口癖がいつの間にか移ってしまうように、日頃読んでいる本に出てくる言い回しがいつの間にか移ってしまうのである。

横文字を使う人間は頭が悪い?

「横文字を多用する人間はインテリアピールをしている馬鹿だ」

と主張する者をよく見かけるが、それらは横文字に触れる機会が少ない人間の単なる妄想であり、見当違いである可能性が高い。

例を挙げると、博識で頭脳明晰な人間が多いとされる文筆家や学者にはカタカナ語を多用する人間が少なくないが、彼らはインテリアピールをしている馬鹿なのだろうか?

彼らを馬鹿と表現してしまうと、彼らよりはるかに知識も智慧も劣るであろう我々を言い表す言葉がなくなってしまう気がするのだが……

受け手側が物を知らなすぎる

6つ目は受け手側がものを知らなすぎるというパターンだ。

たとえば受け手側が「マイノリティ」という言葉を知らないとなれば、それは言葉を知らなすぎる受け手側に問題があるだろう。

このように発信側ではなく受け手側の知識量に問題があるという場合は少なくないと思っている。

似たような話でボクが実際に経験したキラキラネームの例を紹介しよう。

あるとき職場の先輩Aがボクにこんなことを言ってきた。

A「これで○○って読むんだってよ。最近はキラキラネームが多くて本当困るんだよなぁ」

僕「……そっすね^^(いや、それキラキラネームでも何でもない中学レベルの常用漢字なんだが)」

この例のように、横文字嫌いを主張する人間も、むしろ受け手側の知識不足が問題であると感じるシーンは珍しくない。

もっと言えば「横文字がうざい」と主張する者ほど、横文字以外の日本語もまともに使えていないケースが多い。

横文字嫌いには学習が苦手な人間が多い

横文字アレルギーを持つ人には“学習”が苦手なタイプが多いんじゃないかと思っている。

たとえば読書でも、少し難しい本なら見知らぬ横文字や漢字などしょっちゅう出てくる。

このような問題に直面したとき、最低限の学習能力を持ち合わせていれば、辞書やネットで調べるなり文脈から意味を推測するなり出来る。

「知らなければ調べる」というのは何かを学ぶ上で基本中の基本だ。

こうした積み重ねによって、人は知識を身につけていく。

個人的な感覚で言えば、むしろ知らない情報に出くわすほど知識が増えて得した気分にすらなる。

逆に分からない単語や理解できない文章に出会ったとき

「こんな単語分かんねーよ」

「難しい言葉使って知識ひけらかしてんじゃねーよ」

「本当に頭のいい人はもっと分かりやすく伝えるんだよな」

と自分の知識不足や理解力不足を相手のせいにしていては、いつまで経っても知識や思考力が向上することはないだろう。

己を省みることなく他人にその責任を求めるタイプの人間ほどタチの悪いものはない。

たとえば中学生で習うレベルの漢字が読めず

「インテリアピールしてんじゃねーよ、全部ひらがなで書けや!」

と大声で喚いてるヤンキーを想像してみてほしい。

ほとんどの人は呆れかえるんじゃないだろうか?

横文字に対する過剰反応や、知識人に対する攻撃的反応を見ると、このような開き直ったヤンキーを目にしたときと同じ感情がこみあげてくる。

知識をひけらかすことを目的として横文字を多用する人間は少ない

以上のように、実際には知識をひけらかすことを目的として横文字を多用する人は少ないんじゃないかと感じている。

つまり

「横文字ばかり使う人間は賢さをアピールしてるんだ」

と決めつけるのは横文字に触れる機会の少ない人間の短絡的な妄想にすぎないと思っている。

それはちょうど思考力の乏しい人間が、自分の理解の範疇を超えた意見に対して

「逆張りだ」「あいつは〇〇の味方に違いない」「なんらかの権力が働いてるんだ」

などといった幼稚なレッテルを貼って自己満足しているのと変わらない。

だいたい今の世の中なんて10秒もあれば知らない言葉をネットで調べることができる。

よく使われるカタカナ語なんて限られてるし、義務教育レベルの英語が分かれば理解できるものも少なくない。

日頃から分からないことを自分で調べる習慣や、新しいものを受け入れられる柔軟な脳みそがあれば、いちいち目くじらを立てるような問題ではないだろう。

知らないことは悪いことではない

知らないこと自体は別に悪いことじゃない。

だが知らないことを開き直り、それが“知ってる者”への攻撃に転じると、そこには恥知らずのヤンキーに通ずる痛々しい臭気が漂いはじめる。

そしてどこを見渡してもこの悪臭が充満しているのが現在のネット空間である。

昨今のネット上は、自分に理解できないことがあるとすぐさま相手側に問題があると決めつけて思考停止する人間であふれかえっている。

だがたいてい発信側の表現に問題はなく、受け手側の知識不足や理解力不足に問題があるケースがほとんどだ。

とくに発信側に人並み以上の知識があり、受け手側がろくに読書もしなければ学生時代の成績も振るわなかったような人間である場合、受け手側に原因がある確率は高くなる。

たとえば古典的な哲学書などを読んでいると、たまに何を言ってるのか全くわからない難解な本に出くわすこともある。

この場合、問題なのは書き手の表現ではなく読み手の知識不足もしくは読解力不足だ。

実際、関連する入門書などをいくつか読んでもう一度チャレンジしてみると、かつては意味不明だった文章がスムーズに理解できたりすることは少なくない。

このように知識がないと相手が意味不明なことを言ってるように見えてしまう現象は世の中に腐るほどある。

「わからないこと」に出くわした時、相手に問題があると決めつけ、自分に問題がある可能性を疑えない人間はそこから成長する可能性は低いだろう。

わからない原因が自分にあることに一生気づかないまま人生を終える。

だがネットのコメントを見ていると、世の中はそんな人間のほうが多数派であるように感じてしまう。

こんな世の中では、勉強して知識を蓄えるよりも、知らないことを自覚すらしないまま生きていたほうが幸せなのかもしれない。

論理なんてまったく分からないほうが共感できる仲間がたくさんいて生きやすいのかもしれない。

幅広い知識に基づいた合理的な主張をする者が叩かれる一方で、凡庸な中学生でも思いつくような感情論を主張する者が称賛されてる光景を見ていると、知識を学ぶことが虚しく思えてくる。