「本を読むことはいいことだ」
「読書をすると頭が良くなる」
「成功者はみんな本を読んでる」
昔からいたるところで耳にするセリフだ。
しかし
「読書は無駄だ」
「読書はデメリットが多い」
といった話はなかなか語られることがない。
そこで今回は、毎月10~20冊程度の本を読んでるボクが、
読書が無駄になるパターンや読書のデメリットについて語ってみようと思う。
読書が無駄やデメリットばかりとも言える8つの理由
読書が無駄でデメリットばかりとも言える理由は以下の8つである。
傲慢になる
「読書量の多い人=謙虚さを持ち合わせた人格者である」
という漠然としたイメージを抱く人は少なくない。
しかしよくよく観察してみると、読書家には傲慢な人間が案外多い。
一番わかりやすい例が、本を読まない人間、もしくは自分より読書量が少ない人間を見下すケースだ。
あるいは読んでる本の種類でマウントをとろうとするスノッブも珍しくない。
ひどい場合だと、漫画など他の娯楽を貶し、読書を唯一無二の崇高な体験であると勘違いしている人までいる。
そうした勘違いをしている人間が
「読書によって多角的に物事を見れるようになるんだ」
「多くの本を読むことで豊かな人間性を身につけることができるんだ」
なんて力説しているのを見ると、恥ずかしくて居たたまれない気持ちになってくる。
いったいどんな本を読めばこれほど偏狭な思想が身につくんだろうか?…と不思議でしょうがない。
話が合わなくなる
読書をすることによって知識量や言葉のバリエーションが増えるのは間違いないだろう。
だが日常生活で難しい言葉を使用するのはあまり良しとしない風潮がある。
そういった意味では、読書が無駄になる、あるいはデメリットとなってしまう機会もけっこうある。
たとえば
「中学生でも理解できるような文章を書け」
「偏差値40の人間に向けたコンテンツを作れ」
というのはマーケティング業界ではよく言われることだ。
実際YoutubeやTwitterでヒットしているコンテンツの多くがこれに当てはまる。
しかし読書量が多くなってくると、
「これぐらいの言葉はみんな知ってるだろう」
「この漢字はだいたいの人が読めるだろう」
という当たり前ラインが無意識に上がっていく。
その結果、活字を読む人間と読まない人間とのあいだに障害が発生し、
「なにカッコつけて横文字使ってんだ」
「何言ってるか分かんねーよ」
「もっとわかりやすく説明しろよ」
といった軋轢を生む事態になることも少なくない。
目的を履き違える
読書のデメリットとして目的を履き違えてしまうケースが多いというのもある。
という記事でこのことについてはネチネチ語った。
一部の読書家はより幸せになる手段の一つに過ぎない教養を「全人類にとって普遍的な価値があるもの」と勘違いする。
挙句にはそれを持たぬ者を見下すという愚行にまで走ってしまう。
「教養を持つ者は優秀であり、教養を持たぬ者は劣っている」
という宗教じみた思想に何の疑問も持たない読書家も少なくない。
彼らは本からいったい何を学んだんだろうか?
これと似たような現象は大学デビューをきっかけにオシャレに目覚めた男子にもたびたび起こる。
高校時代まで垢抜けない格好をしていた男が突然おしゃれなブランド物を身につけ、ユニクロなどの安物を着た学生を見下すようになる。
確かにある程度のおしゃれは手っ取り早く第一印象を良くできるため、費用対効果の高い投資であるのは間違いない。
ただ一定レベルを超えると、おしゃれは自己満の側面が強くなってくる。
もともと女子にモテたくて始めたオシャレだったはずが、いつしかファッションオタクというごく一部の人間に受け入れられるためのマニアックなオシャレになってしまう。
さらに他人のファッションにケチをつける嫌な人間にまでなってしまったら本末転倒だ。
このように「教養至上主義者」と「ファッション至上主義者」は
- 元々の目的を忘れてしまっている
- 偏狭な価値観に染まっている
- 手段の一つに過ぎないものを過大評価している
- 以上のことに気づいていない
という点において、そっくりな存在なのである。
時間を失う
読書のデメリットとして確実なのが時間を失うということだ。
読む本や読書スピードによって失う時間に差はあるが、速読をせず丁寧に読んだ場合、たいてい読了までに数時間はかかる。
これまで数多くの本を読んできたが、時間の無駄でなかったと断言できる読書はそれほど多くない。
「読書によって得たもの」が「読書以外のことをやってた場合に得られたもの」を確実に上回っている、と自信を持っては言えない。
逆に今回の読書は時間の無駄だったな……と思うことは正直よくある。
これは自称読書家がよく言う「薄っぺらい本」をボクが読んでるからではない。
彼らがやたらと持ち上げる”名著”や”古典”を読んでも、同じ感想を持つことは少なくないのだ。
偏見が身につく可能性もある
読書が無駄になるどころかマイナスに働くケースも珍しくない。
偏見を身につけてしまう可能性も高いからである。
本を執筆する人というと賢いイメージを抱きがちだが、決してそんなことはない。
ある者は陰謀論を布教し、またある者はいろんな説の中の一つに過ぎないものを「絶対的な正解」として紹介したりする。
さらに人間には確証バイアスという傾向が存在する。
自分にとって都合のいい情報ばかりを収集したがる心理だ。
このように偏った知識ばかり得ると、むしろ読書をしてなかった時よりも頓馬になってしまう。
自分から見れば成長でも他人から見れば退化かもしれない
読書によって知識を得ることを、たいがい自分のなかでは成長と捉えている。
だが自分の成長が他人から見ても成長かといえばそうとも言い切れない。
たとえばDQN集団に属し、知性の欠片も見られないA君という人物がいたとしよう。
彼はある日突然勉強に目覚め、だんだんと知性の伴った発言をするようになったとする。
すると以前までのA君を知っていた他のDQNたちは
「アイツ変わっちまったなぁ」
「ムズカシイしいことばっかり言うつまんねー奴になったな」
というように、彼らの中ではA君は成長ではなく退化したことになる。
ほかにも
「昔仲良かった友人が政治に興味持ち始めてから話が合わなくなった」
「あのアーティストは初期のほうが好きだった」
といったように本人は成長してるつもりでも、周りから見たら別の評価をされているケースは珍しくない。
このブログで言えば、ここ最近は以前より何かを批判する記事が多くなった。
(これも読書による(悪?)影響である)
人によってはこのような毒気のある批判記事のほうが共感を覚えるかもしれないし、人によっては毒のない平和なブログだった時のほうが良かったと思うかもしれない。
知識にも同じような側面があって、知識がないときにしか分からないものや共感できるものというのは必ずある。
傲慢というのは何かを得る過程で多かれ少なかれ誰にでも生まれる。
現にこのブログの文章は傲慢で満ちあふれていることを否定できない。
あるサイトの調査によると、社会人が1か月に読む本の平均は0冊~1冊程度らしい。
つまり本を(ほぼ)読まない人のほうが多数派なのだから、本を読まない状態でいたほうが世間とは話が合うかもしれない。
思慮深い人間の発言が、浅い思考しかできない人間からは「愚かな発言」にしか見えないという現象は、ネット上のいたるところで見受けられる。
たとえば仮にあなたがヤフコメでGoodボタンを押されることに喜びを感じるのなら、知識を得ることはかえって逆効果になるだろう。
知識を得れば得るほどGoodボタンの代わりにBadボタンを押されるようになる。
浅薄な考えほど賞賛され、深い考えほど反感を生むアベコベ空間だからだ。
(いまやネット全体がそんな感じである)
つまり知識を得ることが誰の目から見ても成長につながるとは限らないのである。
言い換えれば知識を得ることによって生きづらくなる可能性すら存在すると言ってもいい。
根本的な人間性が変わることは少ない
「読書をすることによって人間性が豊かになる」
「本を読むことでいろんなものに対して寛容になる」
こういった効果を読書に見出す者もいる。
本当なのだろうか?
身近にいる「よく本を読む人」を思い浮かべれば、この言説が事実かどうかわかる。
本を読む人の代表例といえば学者、つまり大学教授である。
大学に通ったことのある人は分かるだろう。
彼らの人間性は決して褒められたものではない。
(もちろん例外もいるが)
つまり読書をしたからといって人間性が豊かになるとは限らないというワケだ。
読書量と思考力は必ずしも比例しない
読書量と思考力、あるいは読書量と読解力というものは必ずしも相関関係にはない。
分かりやすいのが学生時代に行われた現代文のテストである。
「本を読む人ほど読解力が高い」
「国語のテストの成績がいい人はみんな読書習慣がある」
というのはよく聞く俗説だが、ボクはこの説には懐疑的だ。
というのも、僕自身が大学入学まで参考書や教科書以外の本をまったく読んでなかったからである。
にもかかわらず、国語のテストは毎回9割以上の点数を取れていた。
おまけに授業もほとんど聞かず、現代文の勉強など人生で一度もしたことがない。
それでも某MARCH大学に現役の一般試験で入学しているのだから、読解力と読書量にはそこまで相関がないと思っている。
(ただし一定レベル以上の難解な本になるとセンスだけでは通用しなくなる)
思考力と読書量が比例しないことはTwitterで読書量の多いアカウントをいくつか観察すれば一目瞭然だ。
同じ読書家と言えども、その発言内容から思考力や読解力はピンキリであることが読み取れる。
彼らは「読書家=思考力に長けている」という幻想を見事に打ち壊してくれた。
また
「本を一切読まないけど頭がキレる」
「ほとんど読書をしないけど物事を多角的に見れる」
という人はこれまでの人生で腐るほど見てきた。逆もまた然り。
なのでやはり読書量と思考力および読解力は必ずしも比例するワケではないと思っている。
読書が無駄やデメリットになり得る理由まとめ
以上、読書が無駄やデメリットになり得る理由である。
もう一度おさらいしておくと以下のようになる。
まあ今回僕の書いた文章自体が、読書によってもたらされるデメリットとメリットを如実に表していると思う。
悪影響に見えるか好影響に見えるかは読んだ人の読解力や感受性によって変わるんじゃないだろうか。
なぜ読書のデメリットを話したか?
今回このように読書のデメリットを述べたのは、とある「読書の魅力を語っている本」のレビューで以下のような感想を見たのがきっかけだ。
「この本を読んで今まで読書せずに生きてきた無知な自分が恥ずかしくなりました。これからはこの本で紹介されたような”価値のある本”を読み、社会人として恥ずかしくない教養を身につけたいと思います」
この感想を読んだボクはちょっとした危険性を感じた。
この人はこれから本を読んで知識を得るに従って、知識が劣る人や本を読まない人を「恥ずかしい人間である」と見下すようになるんじゃないだろうか?
自分は本を読まない人間よりも優れていると勘違いするのではないだろうか?
まるで箸の持ち方を厳しく躾けられた人間が、箸の持ち方ひとつで他人の人格まで判断できると勘違いしてしまうように。
これは先ほど述べたオシャレに目覚めた人間が、途端にかつての自分のような人間を馬鹿にし始める現象と一緒である。
あるいはマイナーな音楽に興味を持った人間が有名なアーティストを馬鹿にし出すのも本質はそう変わらない。
だが高級ブランドを着た人間がユニクロを着た人間より優れているというのは勘違いであり、
マイナーなバンドが有名なアーティストより優れているというのも勘違いであり、
教養を持つものが教養を持たぬものより優れているというのも勘違いである。
そしてこの本自体も単純にまとめれば
「読書をしない人間は愚かだ」
「~みたいな本は読む価値がない」
という持論を終始押しつける非常に説教じみた内容だった。
著者は確かに相当な読書家であり、読書から得た知識によって成功を掴んだ人間でもある。
しかし読書の魅力を伝えたいがあまり、本を読まない人間を貶し、さらに限られたジャンルの本しか認められないその狭量さには正直ガッカリした。
あなたがいま語っている物の見方こそ一元的なものの見方なんじゃないのかい?
またこうした教養至上主義者の多くに見られるのは
「ある程度の知識がある人間ならば、誰しもが自分と同じように読書の素晴らしさを理解できるはずだ」
という勘違いである。
これは自分の価値観が万人に当てはまるという思い上がりであり、
自分の方が相手より人生の楽しみ方を知っているという傲慢でもあり、
人の感受性は様々であることがわからないという点において無知でもある。
読書は無駄ではなく、デメリットを上回るメリットがある(人もいる)
ここまで読書のデメリットを語ってきたが、僕自身は毎月10~20冊程度の本を読んでいる。
これは平均的な社会人の読書数の10倍~20倍以上の数値だ。
なぜこれほどマイナス面が多いのに読書を続けるかといえば、
読書は無駄ではなく、デメリットを上回るメリットがある
と思っているからである。(自分にとっては)
読書のメリットについての話は今度書くかもしれないし書かないかもしれない。