「偏食はわがまま」
「偏食は甘え」
「大人の偏食はみっともない」
昔からよく聞くフレーズである。
今回はこうした発言がいかに無神経な暴論であるかを分かりやすく説明していこうと思う。
給食の9割を残す偏食少年はわがままなのか?
給食の9割を残す少年というのは小学生時代のボクのことである。
そのころの摂取カロリーは1日1,000kcalもいかないのが日常だった。
まず学校へ行く前に朝食を食べる。
偏食に加えて少食だったのもあり、食べるのはパン1つだけだ。
そして昼は学校の給食。
給食の時間になると周りの子はみな喜んでいたが、ボクにとって給食の時間は苦痛以外の何物でもなかった。
食べられるものが1品、よくても2品程度しかないからである。
1品というのはパンかご飯で、運が良ければオカズにもう1品食べられるものがある、といった感じだ。
メニューによっては1品も食べられるものがなく、そのまま夕食まで何も口にしないことも珍しくなかった。
夕食も食べるものは多くない。
ご飯はほぼ固定、それに加えてオカズが1品、運が良ければ2品というのが基本だった。
当然体型はガリガリで、現在に至るまで体重が全国平均を上回ったことは一度もない。
偏食とわがままと親の教育
さて、ここまで読んで“常識的な大人”の方々のなかにはこう感じる人も多いのではないだろうか。
「食べられるものってなんだよ。わがまま言わずに食べろよ」
「1つ2つ嫌いなものがあるのは分かるけど9割残すのは甘えだよ」
「親のしつけが悪いんじゃないの?」
これらはネットでもよく目にする意見だし、実際に直接言われたこともある。
1つ目と2つ目に関しては親からも似たようなセリフを数え切れないほど言われている。
まずは3つ目の
「親の教育が悪いから偏食になる」
というよくある誤解について反駁していこう。
親は給食の9割を残す偏食少年にどんな教育をしたのか?
ボクには他の親とそう変わらない“常識的な教育”だったように思える。
(おそらく)たいていの親がそうであるように、ボクの親も偏食を放っておくことはなかった。
むしろ積極的に矯正しようとしていた。
毎日のように偏食を叱られていたし、嫌いな食べ物を1時間以上かけて食べさせられることなんて日常茶飯事だった。
ボクが偏食になったのは、母親の料理が下手だったとか努力が足りなかったからという原因によるものではない。
その証拠に5つ年の離れた兄はなんの好き嫌いもなく普通に何でも食べている。
兄は努力したワケでも特別な教育を受けたワケでもなく、最初から嫌いなものがそれほどないのだ。
子供が無秩序である原因をなんでもかんでも親の教育に帰結させる人間は多いが、少なくとも偏食に関しては教育よりも生まれ持った特性が占める割合のほうがはるかに大きい。
盲目の人間が後天的な教育のせいで盲目になったわけではないように。
ビューティコロシアムと偏食
昔『ビューティコロシアム』という和田アキ子がMCを務める番組があった。
容姿によって悲惨な人生を送ってきた女性が、美容のプロたちに整形をしてもらい別人のように生まれ変わる……という内容である。
番組に出てくる女性はそんじょそこらの不美人ではなく、いかなる整形否定論者も彼女たちを目の前にすれば黙り込むしかなかった。
そして彼女たちの悲惨な人生がVTR形式で流される。
「カワイイは作れる」
「努力次第で女は変われる」
そんな言葉をビューティコロシアムの出演者にかけようものなら即座に人格を疑われるだろう。
努力ではどうにもならない壁が誰の目にもハッキリと認識できるからだ。
それらの言葉は誰にとっても虚偽である訳では無いが、少なくとも彼女たちには明らかに当てはまらない。
彼女たちの不幸が本人の努力不足によるものではないことは自明なのである。
私だって努力したら出来たんだから……
よく努力によってコンプレックスを克服した人が、自分の経験を根拠に
「私だって努力したら変われたんだから、あなたができないのは努力してないからだ」
という理論を振りかざしているのを見かける。
多くの場合そういう人は物事を“ある”か“ない”かの単純な二択に置き換えてしまっている。
平均程度のルックスの人間がカワイイを作るのと、学年一の不美人である人間がカワイイを作るのとでは難易度が大きく違うことは誰でも理解できるだろう。
偏差値50の者が偏差値60になるのと偏差値30の者が偏差値60になるのでは、必要とされる努力の量がまったく異なるのだ。
つまりそれは生まれつきの差異を無視した思慮の浅い発想なのである。
偏食はわがままなのか
ここまでの話はおそらく多くの人間が理解できるだろう。
だがこれを“食”というテーマに置き換えると、なぜだか突然理解できる人間が大幅に減少する。
この世には努力ではどうにもならないレベルの容姿が存在するのと同様に、努力ではどうにもならないレベルの偏食も存在する、という簡単なアナロジーが理解できないのだ。
不美人であることの原因が本人の努力不足ではないように、偏食であることの原因も本人の努力不足ではない、ということが分からない。
同じ“努力”であってもその程度や感じ方はさまざまであるように、同じ“嫌い”であってもその程度や感じ方はさまざまである、ということが分からない。
つまり美醜の話では認識できた“努力では超えられない壁”や“生まれつきの差異”が、食の話になるとなぜだか認識できなくなるのである。
「嫌いなものが1つ2つあるのは仕方ないが、それが多すぎるのはわがままだ」
という主張をよく目にするが、なぜ1つ2つは理解できてその数が増えただけで理解できなくなるのだろう?
生まれつきムダ毛がほとんど生えない人間もいれば通常の何千倍もムダ毛が生えている人間もいるように、口に合わない食べ物が通常の何千倍もある人間がいてもなんら不思議な話ではない。
たとえば以下のような理屈は誰もがおかしいと判断できる。
「すね毛が100本生えているのは仕方ないが、1000本生えているのはわがままだ」
だがこれが毛の話ではなく食の話になると、このムチャクチャな理屈を真顔で主張する人間が大量に存在するのだ。
どちらも生まれ持った体質の差異によるものに過ぎないのだが……
偏食は理解されない
偏食は理解されないどころか
「偏食はわがままだ」
「偏食は親の教育が悪いからだ」
「偏食は甘えだ」
といった意見が市民権を得ている。
どう考えても暴論でしかない主張を何の疑いもなく信じてる者が山ほどいるのが現状だ。
よく考えてみてほしい。
ボクは多くの人間が美味しいと思う食べ物の9割を不味いと感じる。
“みんな”の好きなピザや餃子や肉まんや、ネギもカップラーメンもオムライスも、ひと噛みしただけで猛烈な吐き気に襲われる。
炭酸だって喉が燃えるような感覚と苦味しかない。
いったいこれのどこが甘えなんだろう。
ハードモード以外の何物でもないじゃないか。
彼らは努力してピザを食べているのだろうか?
毎回吐きそうになりながら我慢して餃子を食べているのだろうか?
ホントは嫌いだけど良識ある社会人だからオムライスを食べているのだろうか?
いや違うだろう。
美味しいから食べてるだけだ。
9割の食べ物を美味しいと感じられる恵まれた舌を持つ人間が、どうして9割の食べ物を不味いと感じる舌を持つ偏食家をわがままと断罪できるのか不思議である。
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