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ネットになくて本にあるもの

「今の時代ネットで検索すれば10秒で答えが分かるのに、わざわざ本を読むメリットなんてあるの?」

これはここ数年でよく見かけるようになった問いだ。

結論から言うとメリットはある。

しかしメリットがデメリットを上回るのかといえば、ボクにはよくわからない。

わからないが毎月10冊以上の本を読んでいる。

読書のデメリットについては以前

『読書は無駄やデメリットだらけ』

という記事でネチネチ語ったので、今回は読書のメリットのほうを述べていこうと思う。

ネット検索では得られない読書特有のメリットとは何なのだろうか?

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ネットと本の違い

まず「ネットで得られる情報」と「本で得られる情報」の違いを簡単にまとめておこう。

ネット
情報の鮮度最新情報が得られる古い情報が多い
情報量1,000~6,000文字程度80,000~120,000文字程度(※1)
発信者平凡な一般人が多い大学教授などの知識人が多い
内容の深さ浅いものが大半深いものも多い
情報の価格無料基本的に有料(※2)
※1 一般的な文庫本や新書の場合
※2 Kindle Unlimitedなら月980円で読み放題

ほかにも細かい違いはあるが、大まかに分けるとこんな感じになる。

一言でいえば

「文字数が多く、信頼性のある著者によって書かれており、深い内容のものが多い」

というのが本がネットよりも優れている点である。

ではこの長所によって得られる“ネット検索では得られないメリット”は何なのか?

ボクが思う読書の最大のメリットは

「未知の未知」を「既知の未知」に変えられること

である。

「未知の未知」を「既知の未知」に変える

「未知の未知」を「既知の未知」に変えるとはどういうことなのか?

少し分かりづらいかもしれないので図にしてみよう。

知は3つの領域に分けられる。

いま既に知っている領域は「既知」

知らないことを知っている領域が「既知の未知」

知らないことすら知らない領域が「未知の未知」だ。

「既知の未知」を「既知」へと変えるのは、読書だけでなくネット検索でもできる。

だが「未知の未知」を「既知の未知」へと変えるのは、ネット検索ではなかなか難しい。 

あなたがネットで検索するときに打ち込むキーワードは「既知の未知」の領域にあるからだ。

例えばあなたが“iPhone15 性能”というキーワードで検索したとしよう。

このときあなたはiPhone15の存在を既に知っている(=既知)

さらに「自分がiPhone15の性能を知らない」ということも既に知っている(=既知の未知)

知らないことを知っているからこそ問いが生まれ、答えを検索するのである。

検索結果に出てきたWebサイトはiPhone15の性能に関する答えを提示するだろう。

すると「既知の未知」は「既知」に変わる。

だがここまでの過程で「未知の未知」の領域にあるものはほとんど目に入らない。

多くの人は自分の知りたい情報を調べるためにネットを使うので、それ以外の情報は入ってこないのだ。

では本の場合はどうだろう?

先述の表に示した通り、ネットに転がっている文章の多くが1,000文字~6,000文字程度であるのに対し、本は一般的な文庫本や新書ですら8万~12万文字程度で構成されている。

そしてウェブサイトが求められた答えを提示するのに対し、本は答え以外の派生情報をふんだんに盛り込んでいる。

その中には読者にとって「未知の未知」の領域にある知識が無数に散りばめられているのだ。

ある読者は本の中で引用された人物に興味を持つだろう。

ある読者は自分の盲点だった視点に気がつくだろう。

ある読者はそれまで無関心だった問題に関心を抱くようになるだろう。

こうした「未知の未知」に対する“気づき”によって、その人には新たな問いが生まれる。

そして問いを解決するために次の本を手に取り、またその中で新たな問いが生まれ……という具合にエンドレスで知識が増えていく。

気づきの大半は“答え”とは別の派生情報から生まれるため、答え以外の情報が少ないネットで「未知の未知」の領域にあるものに気づくことは困難なのだ。

人は無知を認識して初めて「知りたい」という欲求が生まれる。

まず知らないことに気づかなければ、知りたいという欲求は生まれようがない。

「未知の未知」の領域に存在するものを「既知の未知」に少しずつ変えられるのが、読書の最大のメリットだとボクは思っている。

既知の未知が増えるとどうなるのか?

では既知の未知が増えるとどんないいことがあるのか?

最大のメリットは選択肢が増えることである。

たとえば先ほどのネット検索の話で考えてみよう。

「未知の未知」の領域にあるものは存在にすら気づかないのだから、知りたいという意志がそもそも生じない。

そこに選択の余地はないのだ。

しかし「既知の未知」であれば、調べるか調べないかは自分の意志で選択できる。

またその対象についていろんな角度から問いを立てることもできる。

つまり「未知の未知」が「既知の未知」に変わることでそれまで存在しなかった選択肢が生まれ、より自由が広がるのである。

ピンとこないかもしれないので恋愛に例えてみよう。

舞台は学校だ。

あなたが話したことのある異性が「既知」の領域、

顔は知ってるけど話したことはない異性が「既知の未知」の領域、

顔すら知らないそれ以外の異性が「未知の未知」の領域に属する。

通常あなたが恋をするのは「既知」あるいは「既知の未知」の領域にいる異性である。

「未知の未知」の領域にいる異性はあなたには認識できないからだ。

つまり基本的には同じ学校に通う同学年の異性から好きになる相手を選ばなければならない。

仮に同学年の異性が20人だった場合、20人しか選択肢がないことになる(ケースA)。

ところが、あなたが部活をやっていれば、「既知」や「既知の未知」の領域に部活で存在を知った他学年の異性が加わる。

それが20人だとすれば、選択肢は2倍に増えることになる(ケースB)。

さらにあなたが学校外でバイトをやっていれば、「既知」や「既知の未知」の領域にバイトで存在を知った異性が加わる。

それが20人だとすれば、2つ合わせて選択肢は3倍に増えることになる(ケースC)。

ケースA~Cの中で、より理想に近い異性に出会える可能性がもっとも高いのはどれだろうか?

もちろんCである。

つまり選択肢が増えれば増えるほど、理想に近づく可能性が上がるのだ。

部活やバイトが新たな選択肢を生み出すのと同様に、読書はそれまで存在しなかった新たな選択肢を生みだす。

選択肢が増えることで自由度は上がり、理想的な人生に近づく可能性も高まる。

しかも先の例とは違い、選択肢は10倍にも100倍にも1000倍にも増加する。

読む本が多ければ多いほど思考の選択肢が広がるのだ。

以上が「未知の未知」を「既知の未知」に変えることで得られるメリットである。

未知の未知に対する無知

一般的に知性の高い人ほど「未知の未知」の領域が果てしなく広いことを知っている。

自分が知っていることなど全体のほんのごく僅かに過ぎないことを理解しているのだ。

一方でその逆の人は「未知の未知」の領域が存在することすら認識できていない。

あるいは認識できていたとしても、その領域をかなり過小に見積もっている。

言うなれば「未知の未知に対する無知」なのである。

「未知の未知」の領域が存在することを認識していない人の世界観

たとえば不倫報道を例に見てみよう。

未知の未知を認識している人は、

「報道では知り得ない当事者同士の事情があるだろう」

と想像できるので、断片情報を聞いて一方を叩くような真似はしない。

反対に未知の未知を認識していない人間にそのような想像力は働かない。

テレビやネットニュースで見聞きした情報が彼らにとってのすべてなのである。

メディアが“悪”として報じたものは、彼らの世界観では疑う余地のない“悪”なのだ。

未知の未知の誤謬

立派な大学を出て博士号まで持っているような人物に対し、日本語の読み書きすら怪しいネットユーザーが上から物を言っている光景はSNS等でよく見かけるだろう。

あれはまさに「未知の未知」を認識できていない人間の典型と言える。

彼らは自分の理解能力が及ばない主張を目にしたとき、必ずといっていいほど以下のような結論に行き着く。

「アイツは知識がないからおかしなことを言っているに違いない」

不思議なことに、相手が自分より明らかに博識な人間であっても迷わずこの推論を採用してしまうのだ。

「理解できないのは自分の知識不足、または思考力不足が原因ではないか?」

「ひょっとしたら自分には見えていない世界があるのではないか?」

といった疑念は彼らには微塵もない。

あの自信がどこから湧いてくるのか謎なのだが、彼らはいつも確信しているのである。

対称に未知の未知を認識している人間なら、自分よりも博識な人間の主張が理解できない場合、以下のように考える。

「あれほど知識のある人間が自分が知っている程度のことを知らないはずがない」

「……にもかかわらずその主張に至るということは、自分には見えていない背景知識や論理があるのかもしれない」

もちろん必ずしも知識量の上回る人間が正しいことを述べるとは限らない。

だがある程度勉強をしてきた人間に、そうでない人間には見えていない世界が見えているケースが多いのは否定しがたい事実だろう。

(※勉強とはもちろんネットやテレビで偏った情報を拾うことではなく、大学教授など信頼のおける人物の著作を読むことを指す)

つまり納得のいかない主張でも、まずは虚心坦懐に相手の話を聞いてみようという心構えが重要なのである。

自分の考えを変える可能性が開かれていなければ、それは相手の話を聞いていることにならないのだ。

読書においてもこの姿勢は欠かせない。

たとえばちょっと難しい学術書を読めば、理解できない文章など腐るほど出てくる。

多くの場合、読めない原因は自分にその本を読むだけの知識や読解力が不足しているからだ。

読めるようになるにはまず自分が無知であることを認め、入門書などから読んで知識を増やしていく以外に方法はない。

そうして勉強を重ねていくうちに、それまで意味不明な文字の羅列に過ぎなかったものが奥の深い文章へと変化していく。

振り返り

……途中からテーマが変わってしまったような気がするけど、まあいいか。

読書についてもう少し書きたいことはあるけど、長くなるので次の記事で書こうと思う(気が変わらなければ)

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